グランド・F・テニス倶楽部の思い出 後半

別の角度から。後半部分。同じ内容をもう少し踏みこんで書いてみます。

時代は、バブル真っ最中。確か。1990年頃。槙原敬之の「どんなときも」とか大事マンブラザースの「それが大事」とかが流行っていた。12月末のテニス倶楽部主催の忘年会、場所は、藤岡市の今は、牛🐂肉の焼肉屋牛角。かつては、お洒落なカラオケスナック。歌ったり飲んだり騒いだりと賑やかだった。テニス好き🎾がほぼ全員カラオケ居酒屋に歌いに出かけた。立川さん。中村君。山口先生他。大勢の人がいて。新人の独身女性たちもいた。楽しい時間でした。僕もよく飲んだ。ビールをガンガン飲んで。始まりから終わりまで楽しかった、もうあれから、楽しい事が減った。僕は、松山千春の「長い夜」と松山千春の「恋」を歌う。新井さん。誰か恋しているですか?と冷やかされました。

夢中でテニスをして。テニスの先生の娘さんも好きでした。もう既にテニス倶楽部に入って2年目に入った。楽しかったテニス倶楽部も少しずつ陰りが見えてきた。従兄弟の中野君が入ったり。中野は、群馬県庁勤め。群馬銀行の宮下さんが入ったり。また埼玉県児玉町の役所勤めの荒木さんが入ったり、メンバーが入れ替わる。吉野工業新町工場の人達が減ってきた。ママさんテニスのおばちゃんたちから。「テニス倶楽部の雰囲気が悪くなってきたね!」と密かに話していた。作業着を着て。ナイターテニスに憩いを求めて来ていた人達が居なくなってきた。代わりに背広組が中心になる。しかしながら。こればかりは、仕方がないと思う。テニスそのものがそう出来ている。そうとしか言えない。それでも。僕は、テニスを夢中で🎾楽しんでいた。いや。楽しむしかなかった。テニス倶楽部の経営者ではないから、周りの雰囲気は、関係ないやー。と無責任に思った。またその責任は、中野さんを誘った僕に責任があると先生の奥さんに言われた。これにも、やや参った。そのせいか。その先生の娘さん以外の女性には、まったく女性とのお付き合いが無いから、その先生の娘さんがサラリーマンの男性と結婚したら一瞬ポカンと長い穴に潜り混んでしまった、ブラックボックス状態が長く続く。この時。辛かった。テニス倶楽部の部屋から逃げるように家に帰った。周りの主婦のある女性は、新井さんは、先生の娘さんがほんとうに好きだっただね!と思われた。2年間も無駄になったと感じた。その時分に良く言われた事。友達のNや農協の先輩達からも、「新井は、一生結婚出来ない!」と言われた。

 この数ヶ月前に時間を戻します。ある日。先生の奥さんから新井さんは、別の好きな女性が居るのでは、ないかと勘ぐられた。僕は、ただテニスしか興味を感じないせいか。僕がJ Aで働いていいて、その職場に隠れ女性がいるのではないか?JAは、独身の若い女性がいっぱいいた。でも20歳前後の女性には、僕は、相手にもされなかった。だから。テニス倶楽部の奥さんから、新井さんは、ウチの娘以外に、二股掛けているのではないか?と疑われ、閉口した。「二股かける男性は、駄目だよ。」とも言われた。先生の娘さんが好きかもしれないが、JAには、別の女性が居るのではないかというのは、まったくのでたらめ、正直言ってまったくいなかった。そんなに器用な事は、出来ない。職場で付き合ったり、仕事が終わったら、別の女性を好きになったりは、出来っこ無い。しかし。JA神流農協の金融窓口の中山さんと言う女性が居ました。その時すでに28歳近く。僕は、33歳には、なっていた。もちろんお付き合いは、皆無。職場も平井支所と神流支所では、まず半年に一回ぐらいしか仕事でも合う機会がない。だからほとんど話しもした事が無い。またその中山さんは、かなりモテるのか?またJAの中では、一説によると遊ばれていたのでないかとか。仲の良いNと、テニス🎾よりもスキーが大好きなKとも付き合っていた。またいろんな場面で話題には、なっていた。たとえば、ボーリング大会を主催したり。元気がよく、気が強く、頭が良かった。JAの女子バレーボールの選手で、藤岡西中の体育館で毎晩練習していた。監督は、橋本君。女性バレーが大好きなのか、それとも女性が好きなのか?周りから橋本は、女の尻ばかり追いかけていると揶揄されてました。僕は、中山さんとお付き合いは、してない。しかしながらいつも気には、なっていた。第一。藤岡西中学校は、僕の家の近くだし。あれ?なんで。藤岡西中学校まで、神流支所から遠いし。変だなぁと思った覚えがあります、でも職場には、煩いのが居るな!と思ったが、そんな女性が居るのは、普通だと思う、たとえば。生命保険の勧誘成績表の順位とか。新井さんの生命保険の成績が悪い事を多分ですが、知っていた。その頃は、農協全体で生命保険の勧誘をしていた。当然僕の成績は、芳しくない、ゼロ行進していた。農家に平井支所の北野さんと訪問すると、馬鹿話しに終始した。たとえば。鮎川の清水さんや東平井の斎藤さんのお宅で世間話しを夜中までしていた。だからここではっきりと書いときます。中山さんとは、お付き合いは、してない。断言します。でも一緒に農協のスキー同好会主催のスキーには、行った事がある。一対一でデートは、してない、その時も20人は、参加していた。確か、みつまたかぐらスキー場の一泊2日の帰りに三国峠日帰り温泉「峠の湯」でバッタリ会ったときがある。女湯の前で湯上がり姿の中山さんに出会い頭にぶつかりそうになり、ドキッとした。普段よりも数段と美しいと思った。濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら赤い湯の暖簾から出てきた。誰もいなかったら、ヤバイ事になりそうでした、目と目が合ってしまった。その時は、一目惚れしてしまった。湯上がり姿は、女性は、一段と綺麗になるもの。胸元もややはだけていた。なんで会うのと思った。それは、ほんとうに偶然でした、スキー同好会は、大人数だし。僕が遠くの雪が積もる所では、気が立ってしまい、なにしろ。普段は、無鉄砲なのにスキー場では、安全安心だけしか考え付かない性格でもあった。お酒も程々に。飲み過ぎると雪に埋もれますから。家から遠くに行けば行くほどガードを固めてしまいます。ここが直ぐ家の近くの日野の民宿なら、声をかけたし、それ以上もあったかもしれません。確か別のクルマだったのだろう。その時に中山さんが居る事にはじめて気がつく。もう家に帰る時に気がつく。だから二股なんかしてない。誤解だと思う、そんな事はなく。ただ僕にまだ女性に興味が無かっただけ。宙ぶらりんな感じで生活していた。周りには、独身女性がいつもいるものと錯覚してしまった。自信過剰でしたね。だから後半に痛い目に合う事になる。テニス中心で女性は、ボチボチ。そんな呑気で居たんです、だからぼんやりといつもしていましたね!言い訳ではなく。しかしながら。KとNは、違った、もっと結婚に焦っていたのか。JA藤岡市農協やその他の会社の女の子たちを毎週の如く尾瀬岩倉スキー場や苗場スキー場へ連れて行く。その二人は、芳しくないテニス仲間でした。名前は、佐○建設のKさんと仲の良い藤岡市役所のN。実名は、書けない、まだ現役バリバリだから。なんでもKは、奥さんに喋っていた、Kは、日曜日にスキーに行くと、その次の月曜日にテニス倶楽部の控え室のソファーで座っている奥さんや先生に夕方から夜にかけて、僕の事を話していた。僕は、何回も書きますが、スキーが嫌いで誘われても行くことは、無かった。その日もKは、先生の奥さんと特に懇ろに仲が良かった。またKは、テニス🎾よりもスキーが好きである事を隠さなかった。またざっくばらんで正直でした。テニス倶楽部の部屋の中で僕の悪口をコッソリ言った。先生の奥さんも山口先生も、新井は、いい加減な奴であるという印象を植え付けていった。それが、僕にヒリヒリと感じた。先生も奥さんも徐々に冷たくなる、多分想像ですが、Kが、テニス倶楽部の奥さんに新井さんは、神流農協の中山さんという女性と結婚を前提にお付き合いをしているとか。そんな根も葉も無いうわさを流したのではないか。そんな事は、とても出来ない。相手の中山さんは、中山農園の娘さんで父親は、知らない。でも中山さんの母親は、農協婦人会の役員でバスの中で会った事がある。確か草津温泉のホテル桜井でお風呂に入り食事して帰る日帰り温泉バスツアーでした。バスの中は、カラオケでうるさかった。でも景気良かった。それが普通だと思っていた。その時。その中山さんの母親は、バスの前の席の僕の近くに座って居た。隣りの席なので、話し声が聞こえてきた。家では、肉じゃがをいつも作って置く。とか息子が大学から帰って来ると息子が肉じゃがが、大好きなので。とか蘭のハウス栽培は、夕立が一番怖いよ。ヒョウが落ちてガラスが破れたら、大変だからとか。よく喋る女性だと思った。だからその娘さんである女性を連れ出したりするのは、ちょっとと思う。

 またKは、テニス先生の奥さんに僕の私生活について隅から隅までバラしてばかりいた。普段からピンクサロンに行っているとか。新井さんは、馬鹿だし。融通が効かないし、スキーが嫌いだし。テニスがうまいのを鼻にかけているし。安給与だし。農協職員は、将来的に大した事ないし。なんで、そんなに悪く言うのか、わからない。そんな空気を感じた。KさんとNは、なんでどこで知り合ったかは、それは定かでは無い。会う訳ない二人がなんで仲良くスキーに行くのだろうと思った。あの当時。Kは、Nに誘そわれたのだろう。なんでJA神流農協の中山さんなのだろうと思った。またKさんは、Nと一緒にクルマの運転手がてら、藤岡市青少年センターの他の独身の女の子もスキー場に連れて行ったりしてして、Nから僕の悪い噂を聴いて先生の奥さんに話したりしたりしていたのではないかと憶測もしている。この辺は、実際には、どんな話しが二人の間に出ていたかは、聴いてないからよく知りません。ただ先生の奥さんは、この時期から僕に、素っ気なくなっていった。それは、辛かった。スキーに行ってないのに噂ばかり言われるのは、嫌なものだ。そのからというもの。先生の奥さんは、新井さん!毎日テニスに来なくても良いよ!たまには家で寝てれば!と言っていた。そのあとに確か先生の娘さんが結婚したんだと思う。誰にも知らせずにコッソリ結婚してしまった。それも水臭いと思った。Kのせいだと思う、またその時。山口先生は、寂しげでした。娘さんが遠くに嫁にいく事を不安を滲ませていた。繰り返し同じ事言っていた。それも、先生は、僕の前で。娘さんの結婚相手に不安を覗かせ、その言葉を僕に投げつけていた。「 同じ日本だからその内。会えるだろうとか。」広島県出身か!また実家は、四国だとか。サラリーマン風の男性について。テニスの先生は、「またいちからテニスを教えなくては、ならないなぁ!」とか言っていた。生まれも育ちもまったくわからない男性と結婚することに危惧を懐いて居た。それは、大変だろう。地元出身なら、家柄とか相手の家の事情もわかるから、安心できるけど。まったく知らないなら、どんな家なのか。それは、親としては、心配だろうと思った。藤岡市にも、もっと人間身のある男性もいるだろうに?と思った。それからテニスのラケットを振りながら。今使っているこの固いラケットをその男性に渡たすか?とか言っていた。硬い薄いラケットも厚ラケも大切なのは、ラケットの厚さや硬さではなくフォームだからと言っていた。また僕の顔を見ると、「いい加減な奴だ。」と言わんばかりの顔をした。その時にテニス🎾の先生が写した僕のファハンドの連続写真を貰いました。あれ?いつ撮ったのだろうと思った。その時。先生は、もう会うこともなくなる事を予期していたのだと思う。僕は、その時から、テニス倶楽部へは、あまり行かなくなって居た、先生の奥さんは、うちの娘がいちばん貧乏クジを引いたとか。あまり嬉しそうには、してなかった。結婚だけは、運や不運があるけど。そればかりは、正直言って縁だなぁ。地元藤岡にも、いい男は、いる。その男性は、見た感じは、ノッペリとした色白の見た目が良い男性でした、でもちょっと喜怒哀楽を表さない感じが詰まらないと思った。僕とは、正反対。僕は、顔は、汚いし。髪の毛は、適当。短かくしたり。髪の毛を切るのも忘れていたり。挨拶もしないし。服は、だらしなかった。僕は、先生の娘さんは、こういう人が好きなんだ!これは、僕は無理だし、NやKも無理だと思う、あの二人は、休みの日は、クルマで飛んで回っていたから。僕は、テニスしかしないし。テニスに情熱を傾けているし。その男性は、地元には、居ないタイプだと思った。僕は、テニス🎾コートでもすぐに逆上するし。頭にくるとラケットを金網にほん投げていた。( これは、大袈裟?嘘。こころの中は、いつもそんな気持ちでした。) 結婚が決まった後に。先生の娘さんから、「 新井さん、大日本製紙株式会社の営業マンって、知ってますか?これから大丈夫ですかね、良い会社ですか?」と質問されました。「よくわかんないんだけど。」と答えた。そう言えば、群馬県藤岡市には新聞の印刷会社が集まっていた。読売新聞と朝日新聞があり。渋川沿いの関越自動車道を走ると毎日新聞がありました。上毛新聞は、伊勢崎市にあり。大量のパルプが県内で使われていた。多分それらの関係で一部上場企業の営業マンが藤岡市に来ていたのであろう。

また数ヶ月前に時間を戻します。

僕が再三に亘り先生の奥さんに言われた事は、最初は「新井さんは、4年生の大学出てるの?とても大学を出ている人に見えない。」1年2年経つと今度は。 

「早く。赤ちゃんの乳臭い臭いが嗅ぎたいわ?」「

鬼石町桜山公園に冬桜見に行きたい🌸ね?」とか言っていた。2年目後半からは、「 新井さん!勤め先が悪過ぎるのよ。農協に勤めていれば、誰も結婚してくれないわ?」と言っていた。それは、悪い職業だと男性は、積極的に好きな女性に声がかけられない。また女性も声をかけづらくなる。悪循環に陥っていた。その時。僕は、学校の先生にでもなれば良かったと悔やんだ。僕は、城西大学理学部数学科。大半の同級生は、中学校の数学の先生になっていた。そうだ。農協に勤めていると好きな女性と結婚も出来なくなるんだと思い知る。僕もそれは、感じた。職業柄。あまり自己本位に前に進めないのは、勤め先が原因だと思った。大失敗した。安易に職業を決め過ぎた。仕事の良し悪しですべて判断されることをこの時、悟った。その時。廻りのテニス仲間は、みんな良い会社に勤めている人達が多かった。たとえば、従兄弟の中野なんか群馬県庁土木課だし。僕の友達のNも藤岡市市役所の環境衛生課。かなり財産家のKも一流の建設会社の測量士。また、芸術家気取りの陶芸家の本多君もいた。立川さんは、吉野工業新町工場でした。バブル最盛期、冬の季節で、アルペンのCMや山下達郎のクリスマスイブや広瀬香美ロマンスの神様が毎日テレビで放送されていた。上越新幹線高崎駅には、スキー場に急ぐ若い女性で車内が満杯。上里インターチェンジの駐車場には、スキー場からの帰りのクルマがビッシリ。映画「わたしをスキーに連れてって」が流行っていた。何故かNは、スキーとテニスとユーミンプリンセスプリンセスが大好きで、僕とは大の仲良しでもあった。僕は、あまりスキーが苦手で、寒い季節に雪が降る場所まで行くのが億劫で仕方がなかった。農協の職員旅行で日帰り草津温泉スキーバスというプランがあっても行けない事があった。温泉だけでも良いのなら行けました。スキーは、寒くて行きたく無いと思い。またウェアも無いし。スキー道具も無いし。毎年不参加していた。だから冬でも硬式テニスだけ夢中でやった。白いヨネックスのテニスウェアを二つ購入しグランド・F・テニス倶楽部に通っていた。寒い季節は、テニスコートは、疎ら。Kの影響で先生も奥さんもテニスよりもスキーを始めていた。スキーも流行りなので幾らか参加したりは、していたが、イマイチ熱中出来なかった、NとKは、スキーが楽しくテニスよりもスキーだと言っていた。またスキーをしないと結婚出来なくなるとも言っていた。それは、大袈裟だろうと思った。スキーしない人は、大勢いるし。スキーをしなくても結婚は、出来るだろうと思った。それでも、一度植え付けられた悪評は、テニス倶楽部にいづらくなりました。もう扉を開く勇気もなくなった。だからそのあと。グランド・F・テニス倶楽部をやめた後は、呆然とした。行き当ても無くなった。JAの仕事は、つまらない、高崎テニス倶楽部は、レベルが高くて入れない。高崎市のあすなろテニス倶楽部や高崎市のダイアモンドテニス倶楽部に入会したりした。やはり前のような家族的な要素は、無くなった。またそれもほどのテニス🎾熱は、なくなっていた。糸の切れたタコになっていた。彼方此方へ、クルマを走らせた。Nが言うように。ひとりぼっちになっていた。肝心の神流農協の金融窓口の中山さんは、もうとっくの昔に結婚していた。確かテニス倶楽部🎾主催のスキーバスの年だと思う。まったく知らない一般男性と結婚していました。そのJA神流農協の中山さんとまだ僕が若くてテニス倶楽部に入る前。20代半ばに、偶然。藤岡市戸田書店で会った事がある。こんにちは!とかいくらか話した。それがのちのち悪かったのか良かったのか。結果は、悪かった。話しかけなければ、良かった、あの頃は、戸田書店で、新刊本の目ぼしい本は、全部購入。およそ1万円ほど。CD💿も毎月1万円は、買っていた。僕は、読書と音楽鑑賞が趣味のオタクっぽい感じの青年でした。JA藤岡市では、新井さんは、本屋さんばかりいる人というイメージがあった。読書していた本は、覚えて無いけど、漫画の「まんだらやの良太」「釣り馬鹿日誌」とアラーキーの写真時代だけは、欠かさず購入していた。三人に心酔し切っていた。音楽は、マイルス・デイビスジョン・コルトレーンビル・エバンスばかり。サッパリわからない。またわからないから、理解しようと思った、わからないということは、僕にとって許されない事であった。真剣に聴いた。それなので、その後モーツァルトのピアノ協奏曲がやさしく感じた。余談、また僕の母親も問題である。藤岡市農協の農機具修理屋さんの桜井さんだかに神流農協に良い子が居るよ!と言われた、それなので母親は、バイク🛵🏍に乗って中山園芸に蘭の花を買いに出かけた。相手の中山さんの母親も知るよしもないだろうに、それでも。もう33歳になるのに独身の僕のためにわざわざ出かけて行ったのだろう。その事を相手の中山さんの母親も勘付いていたのかもしれません。まったく余計なことをすると思った、その頃の母親の趣味は、蘭の花💐🌸🌼。家の前にごちゃごちゃと植木鉢に花を植えていた、中山園芸にも、蘭の花を観たいという気持ちもあったと思う。後で、あの家に良い子が居たのに!と言って居た、母ちゃんがわざわざ行ったのに!と言って居た。もうその時には、テニスの先生の娘さんも農協の中山さんも結婚していた、僕だけ取り残されました、まわりに誰もいなくなってしまった。それは、前にも進む気持ちも失せた。仕方なく。お見合いパーティー前橋市まで参加したりした。母親だけは、そのあとも。何かしとお節介をしてくれた。この時。おまわりさんの高橋さんが女性をたくさん紹介してくれる話しが有り。日曜日に母親と菓子折り持って行った。その人の紹介で僕は、結婚しました。いちばん仲の良かったNとも。お付き合いが遠のいていた。Kとも疎遠。Kは、農協を嫌っていた。なにかと農家にとって農協は、お荷物としか感じていないらしい。その当時。またむかしのように仕事が終わると高崎市の風俗に通い始めた。もう35歳に近かった。その後。縁があり。やっと結婚しました。相手は、29歳の女性。確かプリンセスプリンセスの「ダイアモンド」が流行っていて、別のグループの友達のNが追っかけをやっていた。プリプリの大ファンで休みの日には、都内のライブハウスに行っていた。世間は、浮かれ騒いでいた。それから30年も景気が低迷するとは、誰も想像しませんでした。阪神淡路大震災が真冬の朝。起きた。その時から僕の人生があちらこちらへと荒野を彷徨いはじめた。クラスの「夏の日の1993」や広瀬香美の「ロマンスの神様」が流行っていた。僕の独身最後の年で婚約して結婚もしていた。この年が僕の絶頂期だと思う。さあこれからだ!と思っていたら農協をリストラされました。その前から金融危機であったらしいがら、一般人は、知りようがなかった。天災などの社会変動で、会社で一番下は、路頭に迷った。金融機関が貸し出しし過ぎたのだろう。無闇矢鱈とお金を貸していた。僕が農協をリストラされた後に周りの人達から言われた事。同じ職場の女性と結婚しないと農協に勤める女性たちが可哀想だろうと。農協に勤める女性たちは、同じ会社の人と結婚したいと思っているだよ。藤岡市市役所勤務していた仲の良いNは、新井!スキーをしないと結婚出来ない。と言っただろう。「 神流農協の中山さんは、新井の事が好きだったんだよ。」と言われた。「. 新井は、気がつかなかったんかい!」とも言われた。まったく気がつかなかった。20年ぐらい経ってから、記憶を思い返していたら、ひとつひとつが当てはまってきた。たとえば、ボーリング大会のパンフレットがありました。なんで中山さんが主催するのだろう。農協ではなく、スキー友達や女子バレー部の一部の人達でした、そのパンフレットがテニス倶楽部のテーブルに置いてあった。確かスキーシーズンの冬の寒い時期でした。僕は、恥ずかしくて行かなかった。だって女の子ばかり。その数ヶ月後に中山さんは、誰も知らない人と結婚した筈。ということは、中山さんに逢えたかもしれない最後のチャンスでした。その時のボーリング大会の文面は、「テニス🎾も良いけど、たまにはボーリングでもしませんか。」そうだ。僕に来て貰いたかったのだろう。行けば、良かった。テニスばかりしてないで。その時。先生の奥さんは、何かを察知したのかもしれない。二股は、掛けて無いが他の女性に向かうのだろうと。奥さんの無言の圧力も感じた。この時。テニス倶楽部に誰がボーリング大会のお知らせをもってきたのだろうか!ここにも、僕に対する悪い感情を感じた。だって藤岡市農協の一部の行事だろう。それならば、農協で渡される筈。なんでなんだろう。とか詰まらない事を考えていた。またいくらでもあった。たとえば、なんで中山さんは、藤岡西中の体育館でバレーボールの練習をしていたのだろう。わざわざ僕の家の近くで。なんで中山さんは、僕の一番仲の良い友達のNとスキーに行くのだろう。JAのスキーチームががあり。平井支所の宮田さんや神流支所の下田さんが中心のスキー部があっただろう。そちらに参加すれば、よいのに。なんで僕の友達のNなんだろう。または、○○建設のKなんだろう。変だなぁと思った。その当時。また中山さんが新しいクルマを買ったことを知らせてくる職場の人がいたけど、なんで僕にその話しをするのだろうかと思ったりした。クルマを買う女子職員は、いくらでもいた。女性がクルマを買う事に何か意味があるのかなぁとか。バブル真っ最中だから。そんな記憶の断片を拾っていたら、あれ。そうだ。と中山さんは、僕に好意をもっていてくれたのだ。だから、近づいてきていたのだ。僕は、女性とお付き合いを30年もしてないから、女性の気持ちがわからなかったい、もう一回。やり直せば、とか。今思えば仲良くできたかもしれない。とか思った。でももう30年も前の話し。今ごろ気がつくのは、遅過ぎました。あの頃は、周りは、見えなかった。仕事は、営農部から経済部のガソリンスタンド配属されて、もう農協の女性からもまたその他の女性たちからも相手にされなくなってもいた。