青葉繁れる

僕の両親は、長生きである。僕が知る限り病院に通った事は、無い。

母親は、大の病院嫌いである。病院に行くと病気という名前を付けられ入院させられと思っていた。だから母親は、無理しても病院に行かない。40歳ぐらいの時に村の公民館で行われた健康診断で糖尿病と言われたときは、かなり悩んでいた。僕も糖尿病とは、なんであるか分からなかった。母親は、野菜と納豆を食べれば良いと誰かに教えてもらい。毎日のようにスーパーに通い納豆とか昆布の佃煮を買っていた。病気をなんとか自分の力で克服することに夢中になる。父親は、病気ひとつしないで丈夫な身体をお婆さんからもらっていた。40代50代は、お酒も飲んだが。養命酒にしていた。ただし。父親の父親は、早くに亡くなった。ほとんど仕事が出来ない人らしい。このせいで、父親は、若くして一家の大黒柱になる必要があった。旧制藤岡中学校( 現在の藤岡中央高校 )は、中退。先生に俺は、馬鹿だから家で百姓やるからと言って、学校辞めた。そのあとは学校へは、行ってない。家の本箱に日本大学通信教育のパンフレットがあり。多少は、上の学校に行きたかったかと思う。そんな父親の良い点は、覇気独立精神がひと一番強い。悪い点は、お金のためなら人に迷惑をかけること。たとえば。4トン車の大型トラックに乗って植木屋さんをすること。まわりは、みんな反対するのに本人は、まったく言う事を聞かなかった。農業を嫌っていた。お金にならない。損ばかりする。田畑で草毟りは、できない。ほうれん草を作ると一年で辞めた。苺栽培も一年か二年で辞めた。和牛も飼ったりしたが餌代で赤字になる。土地がまた大好きで、なんとかしては、村人から購入した。そのたびに借金で苦しんだ。頭の中には、土地を買って置いて損は、しない。かならず値段が上がる。土地が下がった事は、無い。バブル時代には、有頂天になる。俺が思っていたようになった。バブル崩壊は、理解できないらしい。土地が下がる事自体が検討も着かないと悩んでいた。父親は、世間話が出来なかった。はっきり言って頭が弱い。村の人達の会話さえ分からない。だから回りの動きについて行けなかった。我が道を行くタイプ。耳が悪いのか?相手の話しに相槌できない。それでいて、嫌な事だけ良く聴こえてよく覚えていた。思い出す記憶があります。僕が藤岡市中央高校の二年の時に藤岡カントリーゴルフクラブにアルバイトに行った。その時は、父親に怒られた。

高校生がアルバイトをしている場合か!勉強しろ!と言われた。家には、お金が無い。お小遣いも無い。それなので、働きに行った。一日重いキャディーバックを担いで18ホール歩くと7000円ぐらい貰えた。多分。2、3回だけ行った。そこには、見慣れた顔があった。鮎川のスナック鮎の息子さんに会う。あれと思った。なんだい。働きに来てるんかいと言う。彼は、中学校の同級生のようなもの。名前は、浦部はじめと言った。クラス委員長したりしていて、頭が良かった。背が高く。スポーツマン風でパリパリ喋った。確か藤岡西中学校の生徒会長もしていた。多分なんとか働いて家計の足しにしていたのだろう。家が貧乏らしかった。もったいない人物でした。お昼にゴルフ場のバイトには、お昼ご飯が出た。全員がカレーライス。浦部はじめは、大盛り無料だよー!とか言ってお皿にご飯を大盛りにカレーも大盛りで持ってきていた。彼は、体力あり。18ホールキャディーした後にまた9ホール回り。一日一万円稼いでいた。

そんな両親のあいだに育った僕はというと、友達も出来ないし。悪るげな友達とは、友達付き合いも出来ない。だから部屋で本ばかり読んでいた。アルバイト絶対禁止の家なんです。土方のような下働きの仕事に行くと父親に怒られた。そんな仕事するな!と言う。貧乏なのに。父親は、プライドが高かった。それなので、あまり友達も居ない。出て歩くのは、本屋さんとレコード屋さんぐらい。作家になりたいと思ったが、頭が悪く。字を並べてる事などまるっきり出来なかった。こころの中には。死ぬまでには、一冊でも良いから本が書きたいと思った。小説でない。作家の第一エッセイ集のような新鮮な本を書き残すことが夢の夢に描いていた。高崎市には、未だお洒落な喫茶店もない。駅には、高崎弁当の立ち食い蕎麦屋さんがまだ人だかりしていた。口伝いにおいしいラーメン屋をみつけては、ひとりで食べに行くのが唯一の楽しみ。群馬県高崎市慈光通りから、すこしだけ脇道に入ったところに、中華料理屋の東竜の肉味噌ラーメンをよく食べた。薄い醤油ラーメンにキャベツと豚肉が味噌味で乗っかっていた。新星堂で本とレコードを買うとかならず歩いて中華東竜に寄る。本は、山のように買い。レコードも数枚は、買った。慈光通りの100円パークにクルマを留めたりした。実家の四畳半の部屋には、本が山のように積み重なり、その真ん中にステレオが置いてあった。プレーヤーは、アナログ。CDプレーヤーが発売されていたが、まだアナログにこだわっていた。大学を卒業したが勉強もして来なかったので、就職は、なかった。家でブラブラしてる時間が長かった。廊下にひっくり返り講談社文庫の厚い本を読む。三国志水滸伝。背広を着て就職活動も良くしました。電車で東京まで行ったり。でもどこにも仕事が無いから。父親が農協に入れた。最初は、まあ仕事があれば良いやと思った。大学の同級生に、聞いたら。まあまあだよ。仕事が無いよりかは、良いよと言われた。でも僕は、農協と聞いて、嫌だなあと思った。景気が悪く。オイルショックの少しあとだと思う。日本大学等の四年生大学卒業してもスーパーマーケットという時代。コロッケを揚げらのが仕事という時代だったです。でもどこか、なんでも見てやろうという気持ちもあった。小田実の本の題名。最初は、周りから見られて嫌な気持ちになる。今思えば。もっと良い会社を選べば良かったと思う。最初で躓くと一生躓いた。給与は、安いし仕事は、土曜日も日曜日もあった。主に野菜の出荷作業と地元の農家のお葬式が休みの日にありました。肉体労働では、ないから。なんとか我慢できました。家に帰ってきてもする事がない。趣味の世界に入っていた。前橋市の歓呼堂や高崎市新星堂に行く。ひとりで神田の古本屋街に出かけてその頃大人気の植草甚一さんのエッセイを買っては、生活スタイルまで真似たりした事もある。ジャスのレコードを購入したり。思い出す一冊の書物は、福永武彦の「枕頭の書」。綺麗な本で四角い箱に入っていた。なんでも書いてあり。読書から絵画や音楽まで。音楽は、当時暗かったので。ジャスばかり聞く。でもサッパリと分からない。マイルス・デイビス短調風よりもソニー・ロリンズ長調風が僕には、合うと思った。またセロニアス・モンクが意外と良いと思った。部屋には、新刊本の本やジャズのレコードで溢れていた。新聞朝刊に広告として宣伝している本は、ほとんど買っていた。23歳から26歳までは、ドン底でした。およそ3年間は、農協と家と本屋だけしか行かなかった。周りは、事件が多発していた。大久保清殺人事件。連合赤軍浅間山荘事件。日航ジャンボ機墜落事故宮崎勤幼女誘拐殺人事件。どれも群は馬県藤岡市周辺で起きた。しかしながら何にも影響を受けてない。そういえば、そういう事があったぐらい。それよりも職場の同僚たち対する深い嫉妬の念の方がよっぽども大きかった。相変わらず。農協と本屋さんを行ったり来たりしていた。女性とは、まったく縁がなかった。そんな暗くトンネルの中を歩いていた日々がある偶然によって変わった。パチンコ屋さんで中里と出会う。中略。父親も母親も僕の事で悩んでいた。20代はじめに就職してから、すでに35歳になっていた。いつになったら結婚するのか。毎朝両親は、朝ごはん食べたり夕飯を食べたりするたびに悩んでいた。毎日両親と一緒に居る長男の僕を持て余していた。母親は、心配のあまりどこかに良い子が居ると思うとなんとしようと考えた。ある日の事。下戸塚の神流地区に良い子がいると言うとバイクで走って行った。お見合いも何回もしました。でも生まれながら優柔不断な性格は、変わらなかった。また恋もしなくなる。どんな女性が現れても、本気になれない。やはり。まったく交際範囲が別だと。コミュケーションが無い事が一番壁になった。たとえば。富岡市農協の女の子は、良い子でした。でも交際範囲がまったく共通点が無いから、こころが通わないです。また庚申山テニスコートに良い子がいても、その週が終わると次の週まで会うことが無いから、とてもお付き合いまで発展しない。すぐにテニスコートで声をかけるほどの勇気がなかった。良い子がいました。藤岡郵便局に勤める女の子は、優しくて気が強くて良かった。顔も名前も知りません。恋は、すでに小学生から中学生の時に始まり、もう終わっていた。新しい女性が出てきても。かならず較べてしまった。コレは、誰にも知られないと思ったが。グランド🎾・F・テニス倶楽部のある年配の女性は、見抜いていた。「新井さんは、誰か他に好きな女性が居るでしょう。」と言われた。「毎日、朝から夕方まで一緒に居れば、新井さんのこころの中ぐらいすぐにわかるわ!」と言われる。実は、それはほんとうの事でした。ただその年配の女性は、勘違いでした。農協職員だという推測でしたが、僕は、平井中学校を卒業してから城西大学に通っているあいだもまた就職してからも、誰も好きにならなかった。またかならず興味関心がある女性が現れても、中学校の時の幼馴染みの女性が夢の中で僕を邪魔しに来た。夢の中を書く訳けに行かないので、書きませんが、かならず夢に出てきた。まるで僕の人生の前面を立ち塞がるかのように夢に出た。とは言え。現実問題として、その女性の事ばかり考えていてもしょうがないから、なんとか打開しようとしました。またその女性は、数年前に東京大学を卒業した男性と結婚したという噂話しを父親が聞いてきた。僕の年齢は、もう35歳になろうととしていた。焦りで、生きた心地がしなかった。その時は、もう誰でも良いと思って結婚したんです。藁をも掴む思いとは、この事。