もう!!僕は、話したくない!!

わたしはもうそれについて話をしたくない!

 


I Don't Want to Talk About It  。

 


ロッド・スチュアートの代表的な名曲。

 


僕の新婚時代

 


(自伝的な散文です。)

Stand by me(私の傍にいてね) ケイリー・スワンソン You Raise Me Up(君は僕に生きる勇気を与えてくれる)(MARTIN HURKENS)を聴きながら。僕は結婚してから親とは同居せずにアパートに住み始めました。確か1995年から1996年にかけてでした。今から23年前です。藤岡市の緑町に新しく出来た4世帯が住む2DKの2階の南側の一室。テレビ番組の「29歳のクリスマス」が流行っていました。あのころのことは山口智子のまるで地のような演技とマライアキャリーの歌声ばかり記憶に残っています。神戸市を襲った阪神淡路大震災から1年あまり経つ。バブル崩壊がまるで戦後の混乱期のような不動産価値観の大変動が起きる。しかしそれらは外部の事で二人は新生活をスタートしたばかりで社会的関心を持つ余裕さえ持ちませんでした。テレビはブラウン管の29型購入。部屋には電気こたつと茶箪笥があり隣の和室には結婚のために妻が購入したタンスが置かれていた。彼女は妹の同級生。高崎経済大学付属高校も同じ、会社も妹と同じ科学飼料研究所で事務員をしてました。鎌倉旅行の写真見ての一目惚れでした。長い髪をソバージュで編んでいた。まるで竹下景子似の女優さんかと思った。出会いはお見合いでした。それでもデートを重ねてもなかなかプロポーズをする言葉が出てこなくてデートするたびにこころが離れていく気がしていた。そんな時に前橋市のテアトル西友の映画館で「シンドラーのリスト」を観た後に車の中でやっとこ「結婚してください。」とプロポーズが出来た。映画の余りの凄さでショックのあまり言えたのかも知れません。簡単に言えば僕の妹の紹介のようなものです。最初の出会いは1994年の暮れに雪の降り積もった朝に車🚗で会社まで送って行った。二度目は1995年2月の寒い冬。藤岡警察署の所長していた高橋さんの自宅で夕方から夜にかけての時間帯でした。警察官の高橋さんは結婚の紹介を無料でしていた。

 


結婚生活は、楽しかった。藤岡市の新築アパート。

ある日。仲の良いH君夫婦が僕の新婚アパートに遊び来た。H君は、藤岡市農協営農部に勤務。同じ部署の総務課S子さんとお付き合いしていた。いつのまにか別れて。今度は、同じ総務課のA子さんと結婚していました。あっちこっちと手をつけるのが早かった。でもあまり誰からも悪く言われてなかった。その時は、4人で映画「ローマの休日」を見ました。僕の好みで。録画しては、何回も見てました。後は、アメリカ映画🎞のベートーベン2。ビデオに録画して、繰り返し観てました。

 


そのあとに僕は、藤岡市農協をリストラされました。まるで、犬の猫を捨てるかのようなどうでも良いかのような扱いでした。僕はというと、ショックで立ち直れない。原因は、なんだのだろう。ある年配の農協職員から、新井さんは、農協の女の子と遊び過ぎたからと言われた。でも、まったく遊んでないし、手も握る事もない。結婚の約束どころか映画館も行ってない。確かに独身時代には、JAに勤めていた総務課のS子さんや神流農協の中山さんと一緒にスキーに行ったりした。単にグループ交際で大人の関係では、無い。話しもしてないぐらい。独身の男性は、まだ未熟で独身の女性とお付き合いは。できない。また僕がその当時。人見知りが激しく。女性とお付き合いもした事もなかった。特に同じ職場だと。会社に帰ってから何かと話しが出てしまうから。また農協には、女性が多かった。女性がまた何か総務部長や総務課長に告げ口でも言ったりしたのかわからない。S子さんにしろ中山さんとも。ほとんど話しもしてない。だから結婚出来る訳が無い。一度とか関係でも有れば、その時。良かったと思った。そうすれば、結婚したい時に職場の彼女に電話でも出来たのにと思った。

 


その年は、バブル真っ最中の冬。1988年ごろ。レベッカプリンセス・プリンセスのダイアモンドが流行っていた。恒例の藤岡市自由民主党衆議院議員小渕恵三スキーバスがありました。僕は、前にも後にもこのとき一回だけ参加させて頂きました。大型観光バスは、5台ぐらいの大人数。子どもから大人まで寿司詰め🍣の大盛況でした。そのスキーバスに、S子さんとH君と僕の3人でスキーに行った。S子さんは、22歳ぐらい。僕は、30歳ぐらい。H君は、25歳ぐらい。まだS子さんは、農協に入りたて。S子さんは、よくわからないまま、ずるずるとH君とお付き合いをはじめていた。二人は、榛名水上花火大会とかに行ってきたとか。後は、どんなだかは知りません。仲睦まじく職場で隠さずに仲良さそうにデートしていた。僕は、羨ましさと嫉みもあったが、こればかりは、手の早いもの勝ちだから。でもS子さんからは、他の職員の噂話ですが、S子さんは、しきりにH君とは結婚出来ないわ!とかお付き合いをやめるわ!とそんな声が聞こえてきていた。同じ村内出身でしたが、H君の家は、貧しい農家でした。S子さんは、家柄が良い農家らしかった。だから多分親の反対もあったと思う。家柄やしきたりなど地域内には、見えない障壁がまたまだ村には、残っていた。多分父親からH君と付き合っては、いけないよ。強く言われていたかと思う。またH君の父親がお酒の飲み過ぎで若くして亡くなっていたのも大きかった。多分父親同士で相手の父親を良く知っていたのかもしれない。それでも半年間は、付き合っていたと思う。僕もS子さんは、頭が良さそうなのが、農協には、珍しいと思った。僕は、またすぐに女性が好きになるタイプでもあった。でも話しもしないし、あの二人は、うまくいかないだろうと周りは、みていました。

でもまさかその二人の関係がうまくいかない事が僕に関係はないと思う。しかしながらそうでもなかった。一緒に新潟県柏崎の海水浴に行ったりしていた。後。どこかの軽井沢のペンションに平井支所の旅行になぜか同行して泊まりで行った。僕がS子さんとお付き合いしていたと父親は、勘違いしたのか?僕が弄んでいたと思ったのか?相手の娘さんの父親からは、農協の男性は、一緒だとそう見えていたのかもしれません。また同じ宮田さんのグループでスキーにも行っていた。みつまたかぐらスキー場とか。また忘れましたが尾瀬岩倉スキー場とか。でも一対一でデートしたことは、ありません。かならず誰か農協職員がいました。あのとき。二人だけで会うことがあったら結婚していたかもしれない。でもそんな機会は、なかった。

話しを1988年の冬。小渕恵三スキーバスに戻します。万座温泉スキー場からの帰りに藤岡市の喫茶店漫画文庫で食事。普段から農協の帰りにH君とよくカレースパゲティーを食べに来てました。その当時は、藤岡市の定番のお店でした。僕は。その時。そっとS子さんの顔を見た。その時。あれ。万座スキー場で輝いていた顔がなかった。暗そうでした。僕も疲れていた。何か話したがこころが繋がらないもどかしさだけが残った。僕がスキーの帰りは、簡単で良いよ。どこか、マクドナルドでも良いよと言った。H君が強行に僕は、漫画文庫のカレースパゲティーが良いよという。仕方なく漫画文庫に行った。奥の席に3人で座る。S子さんが、新井さんは、マクドナルドとかそんなファーストフーズが好きなんですか?と聞かれた。僕は、すぐに解散したいからという。楽しかったスキーも地元に戻ると輝きを失った。だから。行きたくなかった。

あの時が最後。僕がその時、何も話さなかったのがいけなかった。そのあとS子さんは、すぐに農協を辞めた。女性は、感が鋭い。この人は、わたしを愛してない事をすぐに察知していた。よく顔も覚えてない。背が低くて、シャキシャキしていた。スキー場でピンク色のウェアを着ていた。S子さんは、H君とばかり話していて、僕は遠くから眺めているだけでした。お昼は、スキー場で滑るのが夢中で誰にも会えない。どこにいるのか、さっぱりわからない。たまに会うと。H君とS子さんが仲良くリストに乗っていたりした。

 農協に帰ってから、H君から、S子さんを新井さんに紹介してあげたのと言われた。あー。やはり。相手の父親やS子さんから、お付き合いが出来なくなっていたんだ。また。僕と言っても。H君が付き合っていた女性をかってに僕に寄越されても困る。そんな簡単に行く訳ないよ。また。うまくいかない事だけでも話してくれれば、良かったのに。最初にそう言ってくれれば、またスキー場でももっと声がかけられた。そうだったのかとあとで思ったが、なかなか恋がそう簡単に生まれない。特にスキー場では、恋は生まれないもの。特に帰って来ると、美人に見えた女性が普通の女性に変わった。でも。このことは、後まで尾を引いた。まだ20歳あまりの女性を悲しい思いにさせてしまった。もし。あのとき。もっと違うところで、コッソリ会えたら。良かった。でももう会うことも話しをすることもなくなった。そして。このときから。もう職場の女性と付き合うのは、やめようと思った。

 その後。結婚したい時に、僕はと言えば、ガソリンスタンドで苦労していて、とても女性どころでもなかった。また同じ会社の女性とは、話しも手も握る事も出来なかった。もうひとりの女性の中山さんは、ちょっと頭が切れるし、田舎っぽくて家がハウス栽培農家なのが良かった。しかし特に結婚だけは、打算的に出来無い、またS子さんの事で、ますます農協職員との交際に嫌気がさしていた。またもう農協職員に手を出しては、いけないと自分でも思った。また職場結婚して農協内部で、出世の為に女性と結婚するのか?と言われたりまた考えるだけで、またそれも嫌でした。それに、同じ職場で深い関係になる事も何故か不味いと思った。話しをしながらデートするということは、まどろっこしく。すぐに手を付けた方が手取り早いだろう。でもそれも躊躇われると思った。スキーやテニスは、一緒でも、その後が無いから。その僕は、数年後。やっとの末のお見合い結婚でもあった。最初から農協は、嫌で入ったが、すこしは、楽しみも、あった。給与は、安く。生命保険の勧誘があり。電化製品の販売あり。ノルマも出来なかった。でも周りから、また浮いていたかもしれない。

 

 

 

その後。楽しかった新婚生活は、リストラされてからは。暗くなってしまった。部屋で拒食症になる。新婚生活の楽しみもなくなる。妻の父親は、ガッカリして、気の弱い人らしく、すぐに病気で亡くなった。悪いことをしたと思った。妻の父親は、騙されたようなものだと言われた。この後。半年間は、仕事もしないで遊んでいた。いくらかアルバイトをしていた。高崎弁当🍱に勤務したり。その時。読売新聞紙面に新聞印刷工場が藤岡市に出来る事になる。その会社に応募しました。まさか。300人あまりの求人に採用されるとは、思いもしなかった。それも社員番号が一番という、名誉どころか恥ずかしさでいっぱいでした。能力は、無いし。自信も無かった。生活態度は、悪かった。なんで、僕なんだと思った。律儀で気が弱いのが取り柄ぐらい。お金の貸し借りだけは、絶対にしない。それは、大学時代に懲りていたから。読売新聞新聞の県版に、名前も掲載された。その時は、何も話しも出来ないのに、何か書いてあり。新聞記者が気を使ってくれたのだろう。初心を忘れずに、頑張りますとか感想まで入っていた。読売新聞は、まだ建物も骨組みだけ。マイクロバスで埼玉県川越市光村印刷工場まで通った。もともと肉体労働者でしたので、新聞の印刷工場でもなんでも出来るだろうと思った。しかし。それは、まるで違っていた、印刷工場の現場は、また農協などとは、まったく違っていた。夕方から朝までまる半日。働いていた。みんな顔が真っ黒。汗を手に付いた墨で拭いたりしたからだと思う。僕は、その後15年間。読売新聞群馬工場で働いた。配属は、製版部。パソコンからTOYOTA自動車やユニクロのゲラ出し。と翌日の新聞編集カラーのゲラ出しと製版。または、翌日のTOYOTA自動車の広告の製版は、昼間の勤務時間に行われていた。また記事が夜中の10時12時にデスクトップパソコンを経由してプロッターから届くと瞬時に製版した。カラー面は、4枚のフィルムが出力された。職場は、交代で常時3人から4人が居ました。新聞が印刷を始めると、すこし休憩した後に今度はその翌日の広告の準備をした。毎日帰るのが、朝の3時4時。日が登る頃に家に帰ってきました。

もうふたりとも相次いで亡くなる。お葬式には2人で参列。僕は、もう35歳を過ぎていて誰でもいいからと藁をつかむような気持ちで結婚しました。それから2年後に娘が産まれる。その娘がもう21歳になり大事な彼ができて昨日4月2日から埼玉県川越市介護施設で働くことになりました。埼玉県本庄市にある医療専門学校を卒業して3月に理学療法士の国家試験を合格したばかり。娘は親が言うのもなんですが美人で元気が良くて誰からも好かれ、まるで朝の連続テレビ小説の主役に抜擢されてもいいような女の子です。僕が家に帰ると玄関先で嬉しそうに黒いドレスを着てスカートをひらひらとさせながらクルクルと回っていました。ますます美人に拍車がかかる。僕など近くに寄れないほどの喜びようでした。僕にも妻にも似ずに誰に似たのだろうかと思っています。そう云えば僕ももうすぐ60歳になり同級生達が年金を貰える歳になる。僕は2月の早生まれなので来年までお預けを食らってしまうがそれにしても月日が経つのが早いなぁ!