城西大学の思い出 ①

こんにちわ!新井慶一です。9月25日(月)

城西大学経済学部の思い出。)

第一福島荘は、城西大学の東側にあった。現在はコンビニのファミリーマートになっています。建物は木造建築の2階建て築は10年ぐらい。部屋は四畳半一間、トイレは共同で水洗トイレでは無かった。お風呂は、20人もいたのにバスタブは一人暮らしの一人用の大きさでとても大勢が入れるものではなかった。学生時代はそこの下宿の学生はだれもかれもそうとう汚れていたと思う。台所は共同でしたが誰も使っていない。僕の部屋は一階で102号室であった。家賃は月一万円。毎月5万円の仕送りで何とかやっていた。お金が無くなると東武東上線川角駅から八高線越生駅で乗り換えて群馬の家に帰っていました。今も昔も単線でディーゼル機関車 はおんぼろで止まってばかりいました。40年前からまだ電化されていません。101号室隣が茨城県から来ていた横田で103号室が福島県から来ていた尾形。僕は人見知りで勉強嫌い。藤岡中央高校卒業するまでは本気で勉強していたが大学入学したらやる気が無くなってしまう。理学部数学科にせっかく合格したのに線形代数学が理解出来なかった。後期試験も零点で担任の先生に「君はこの大学に向かないので辞めなさい。」と言われた。恥ずかしさと情け無さでそのまま学校へ行かなくなりました。藤岡市の実家で農業していましたが大学だけは出たほうがいいと父親に言われて経済学部に転部。その後6年間も大学に行っていたのに勉強をまったくせずに推理小説ばかり読みふけって居ました。ほとんどひと付き合いもせずに部屋に閉じこもっていた。食事がついていないので電気炊飯器を購入したがあまり使わなかった。小型の冷蔵庫には何も入ってなかった。日清カップラーメンのカレー味と食パンで毎日過ごしていた。部屋では推理小説ばかり読んでいた。その頃流行っていた森村誠一の本ばかり山のように読んでいた。大学に入学した当時は、硬式テニス部に入ったが夏休み前に止めていた。そのときに仲の良かった薬学部の田口と大学正面の喫茶店でテレビゲームをして遊んでいた。本好きなので話が合う。彼はフランス小説家でバルザックの「ゴリオ爺さん」を読んだりしていたが、僕には今もってどこがいいのかさっぱりわからない。彼は早熟でテニス部の女子部員と付き合っていた。彼女は薬学部で名前が内藤恵美子と言った。実家が東京の歯医者さんでお金持ちらしかった。学食でたまには一緒に250円のランチを3人で食べたりしたが、僕は彼女とほとんど喋ったことはなかった。彼女は4年生の時に大学のキャンパスで僕とそっくりな男子学生と仲よさそうに付き合っていた。ふたりとも内気で大人しそうなのがお似合いだなと思った。城西大学経済学部は勉強しなくても学校さえ行っていれば単位が貰えたので出席だけしてその合間は大学の図書館に行って本ばかり読んでいた。古典文学とは無縁で図書館に柴田錬三郎全集の時代小説がその頃ただひとつ読めたので片っ端から借りてきて読む。眠狂四郎シリーズは読まないでその他の小説「お江戸日本橋」のほうを読んだ。大学の3年生ぐらいで部屋が107号室に移る。そこには僕と同じようあまりひと付き合いしない四方弘敏と卓球部の新原浩がいてこのふたりとは3年間よく遊んだ。そのころソニーラジカセを川越東口の安売りのロジャースで買って毎日ビリージョエルの「さらばハリウッド」の入ったレコードやサザンオールスターズの「いなせなロコモーション」を聴きながらラジカセに向かって一緒に歌っていた。みんなからうるさい静かにしろと言われたりしたが、部屋が隅っこで隣が納戸なのであまり気にしなかった。実家の父親が畑を一反ばかり売ったせいか3年生の頃から仕送り額が7万円になっていたので部屋では食事をしないで四方弘敏や新原浩と城西歯科大学の裏側にあった「みさお食堂」で夕飯を食べていた。頼むのはみんな同じでチキンカツ定食。ごはんは食べ放題でしたので毎回どんぶり2杯は食べていた。値段は400円。その食堂には大学周辺に住む学生がいつも来ていた。その中には理学部数学科のもと同級生もいた。みんな学校の先生になったり、校長先生になる子もいた。いまでも寝る前や起きたてのときなどもうちょっと勉強を頑張れば良かったと悔やむことがあります。1980年の暮れもやはり相も変わらず部屋でラジカセを聴いたりインスタントコーヒーのネスカフェの大瓶でコーヒーを飲んだりして遊んでいたら、下宿の廊下を地主(苗字)がドタドタと大声をあげて走ってきた。「ジョンレノンが暗殺された。」と言いながら走り回っていた。部屋は107号室でその日は四方の部屋でステレオで音楽を聞いていた。12月の寒い日でした。(続編を思案中です。)