流動化社会を底辺を彷徨いながら。

僕は、この7年間は、派遣社員やパート社員または、警備員として働いてきました。2011年3月11日に起きた東日本大震災🇯🇵からは、あちらこちらを転々としては働く。勤めていた会社の広告収入が減り会社が急に傾きはじめました。2011年の6月に読売新聞群馬工場をリストラされる。あの当時は、ハローワークは、人混みで仕事を求める労働者でいっぱいいた。求人用のパソコンデスクの椅子が全部埋まっていた。相談窓口も1時間以上も待たされる。情け無く惨めな毎日でした。太田市市役所のなかに教員のアルバイトがあるというので、行ったこともある。群馬県庁で富岡市世界遺産キャンペーンのアルバイトも履歴書を送って応募してみたら、ついに連絡もきませんでした。書類選考で落とされた。伊香保温泉の面接にも行った。水上温泉も行った。どこも景気が悪いのに、求人票があった。あまり積極的に人員募集しているような気がしていませんでした。それでは、どうしてハローワークに求人票があるのか不思議でした。会社訪問するたびに、面接官からバカにされている気がした。家が大規模専業農家なのが幸いした。それだけが救いでした。仕事がなければ、田んぼや畑を耕っていた。近所の農家から畑を借りては、トラクターで耕っていました。麦の国の買い入れ価格が上がったのも助かった。米と麦でも大規模にはじめればいいかなぁと思いました。何も持たない人達は、逃げ場のない失意や絶望感で生きていられないだろう。僕は、ハローワークに通いながら、ポストに履歴書を送ると、何故だか、ホットし、会社からの連絡もないのに、仕事が見つかったかのようになり、また日帰り温泉に行っては、時間を潰していた。その当時僕は、震災の影響で会社が倒産したり、経営改善策として人減らしの一貫として失業者が増大したことでハローワークが大混雑していたとは、まったく知らなかった。ココは、こんなに混むのかなぁと思っていた。ハローワークには、50回以上は、通った。履歴書を書いては、郵便ポスト📮に入れた。50歳を過ぎてからの再就職は難しい。働く場所があまりなかった。あっても若者を必要としていて、50代半ばは、警備員ばかり眼につく。会社へ入れても長続きしませんでした。

イオンモール高崎での施設警備員に採用される。毎朝早くに藤岡市から高崎市までクルマで通いました。はじめて警備服を着たときは、恥ずかしかった。そのときの高崎イオンモールの部隊隊長の訓辞は、ためになった。毎朝開店前に吹き抜けのコートで行われました。働く意味とか安い賃金でも、屁古垂れるなとかまさかココでこんな立派な話が聞けるとは、思いもよりませでした。頭を下げて俯きながら歩くなとか、自分を卑下するな!顔を上げて自信持って歩け。警備員でもプライド持て‼️と教えてくれた。夜勤明けで疲れている仲間達がいると疲れている後輩を庇ってくれた。僕ら明け番がいるところで、「仲間を大切にしろ‼️」と激しく怒った。真っ当な生き方を教えてくれた。近くで働いていたイオンリテールのバックヤードにいたイオンスーパーの40歳前後の美人の女性が、呆れた顔をしていた。「なんだ、警備員か」とそんな顔をしていた。イオンリテールの本社の正社員だと思っていたらスーパーマーケットの警備員なのですぐにも恋心が冷めたようでした。今度は、まるで汚いものでも見たような顔をしていた。それからというもの、僕は、相手の表情ばかり伺う癖がつく。警備員でも優しくしてくれる女性もいた。そんな女性に異性として好感が持てました。横浜市に行ったのも、群馬県にいても詰まらないから、遠くに行けばまた何かあるだろうと思って行ってみました。警備会社の寮に寝泊まりしては、休みの日は、横浜駅西口にひとりで遊びに行った。ただぶらぶらしてまた総鉄線で寮に戻る毎日。駅の中にはドトールコーヒーショップやスタバやタリーズコーヒーがあり、ひまなのでよく通いました。友達もなくつまらない毎日でした。イオン横浜本牧店には、優しい女性店員がいた。歩いているだけで、僕に好感を持っているのが分かった。頑張ってね。あなたみたいな、男性が好きよと言ってくれているようでした。女優さんの坂口良子似ていました。その女性がスーパーのレジの計算や集金に僕が警備員として立会いするのが、僕の楽しみな時間でした。およそ一年間働きました。草津温泉のホテル中沢ヴィレッジでは、お風呂の掃除や皿洗いを経験する。(たくさん書いたので省略。)ただただ人間は、暖かいと思った。貧しくなればなるほど暖かさを感じた。イオンモール高崎では、施設警備員を経験。エレベーターの起動からシャッターの開閉を学ぶ。スーパーベルク上里では、レジ打ちや自動レジの精算迄しました。どの職場も安い給与の支給でした。何処へ行っても同じように仕事は、厳しく、待遇が悪かった。その中でも、頑張っているひとたちがいっぱいいました。僕以上に不幸なひとたちは、至る処にいましたがみんな気持ちが優しくて、損な性格のひとばかりで挙句の果てにみんな貧乏でした。( また後で書きます。)

貧困社会が到来していました。 結婚していないのが、当たり前の世界でした。自分ひとりの食い扶持がやっとの有様。子ども得るどころじゃなかった。生活して行くのが、やっとの世界でした。これが娑婆です。今の日本の現実の社会でもあります。独身者は、40歳ぐらいが多かった。団塊の世代というですか、就職氷河期に特に多い。不景気なときに高校卒業し、派遣やバイトの仕事で働いてきたのだろう?僕は、ある会社の出向で横浜市に働きに行きましたがそこで見たのが炊き出し派遣村でした。2013年か2014年かと思います。山手線の窓から新宿駅の次の渋谷駅までの間にある有名な神社の鬱蒼と樹木の間に眼に映るのは、ブルーシートが数キロあまり続く。野宿している住人がその間を彷徨いていた。まさか原宿表参道の東京のど真ん中に、こんな風景が現れるとは、思ってもみませんでした。2011年の東日本大震災からもうすでに2年は、経っていました。東京の貧乏は、凄まじいと思った。群馬県は、まだ田んぼや畑で食い繋げるから、貧乏が見えにくいのかもしれない。同じ風景を多摩川の河川敷から川崎駅の中間地点でも見かけた。ブルーシートにひとが住んでいた。まるで敗戦直後の東京下町が忽然と現れていた。昔のよりも悲惨な姿でもあった。どこからの助けもなく、ホームレスは、捨てられていました。昔は、支え合って生きていたのに、現代では見て見ぬふりして完全無視されていた。通り過ぎていく住人や勤め人や学生は、まるで関係ないと言った按配。

僕や周りに住んでいる近所の人達も、口々に言うには、「民間はダメ、公務員にならなければ生きていけない。」これが、朝や夕方に群馬の生まれ村の歩道での挨拶の合言葉でもあります。民間企業では、40代から50代のあいだに早期退職やリストラがほとんど。これは、僕に限ったことことではありません。しかしこの時期こそ、大学生の子供がいたりで一番お金が必要なときでもあります。その時期に、民間は給与の支給が減らされるどころか、支払いもしなくなってしまっています。「社会福祉とは、年金などの老人福祉である。」この決まり切った言葉こそ変えていくべきです。ここに今の日本では60パーセント以上の予算が組み込まれています。学費の無償化も社会福祉です。高校や大学の授業料無償化こそ、急務かと思います。先進国であるイギリスやドイツやフランスでは、学費の無償化がすでに実施されています。消費税を1パーセント上げてもお釣りがくるそうです。そのお釣りで小学校や中学校の給食費の無料化を組見込めばいい。イギリス労働🇬🇧党党首ブレア首相は、1に勉強、2に勉強、3に勉強と言っておりました。名言だと思います。僕は、日本人の二宮尊徳の言葉かと思いました。

ギリシャの国では、公務員の給与は、民間企業の3倍だと言います。日本でも官民格差が広がっています。まだ、日本の公務員の割合が低いから問題視されませんが、ヨーロッパのEC加盟国であるギリシャの国も対岸の火事🧯どころじゃなくなりつつあります。日本も同じようになってきました。衆議院議員石破茂さんがTwitterの中で、今の日本は、年収が200万円以下で働たらかざるおえないひとが全体の9割いると書いてありました。まさかと思ったら、これが本当なんです。 年収200万円では、結婚もできない。女性達が200万円の年収の男性だったら、困るだろう。妊娠、育児もできない。保育園や小学校もお金がかかります。僕の家では、年寄りの年金だけが頼り。家系の足しどころじゃなくそのお金が頼りになっております。独身男性も会えば、貧乏でも優しくいいといっても、やはりお金がないと優しくても、うまくいかないもの。横浜そごう地下一階。今川焼きです。名前は、御座候。旨い。甘くて。胃にもたれないところが一番良かった。普通は、一個か二個でもういいやとなる。それが毎回。10個は、食べました。値段も安かった。一個80円。普段は、行列は、出来ませんが、土曜日日曜日は、買うだけで30分は、並んだ。並んでると隣りのお店のコーヒー屋さんが試供品の碾きたて珈琲をカップで持ってきてくれるんです。ありがたかった。その御座候を隠し持って喫茶店に行くんだ。苦いコーヒーに御座候が良く合いました。慶一は、気が弱い。それなので、ズボンのポケットやサムソナイトのカバンに入れて持っていった。慶一は、生クリームのケーキが大の苦手。それなので和食の今川焼きは、ちょうど良い。あずきが大好き。また田舎の家や幼少期を思い出した。昔は、群馬県藤岡市の7丁目繁華街で売られていた。最近は、見なくなりました。あれしかなかったもんねー。甘いものって。家族全員で食べたりしました。だから慶一の家は、クリスマスは、今川焼きでした。母親が買って来た。ケーキ🍰は、食べたこと無し。

その頃ですが。その頃とは、警備員として新横浜駅近くのイオンモール本社で働いていた時。本社の社員ではなく、警備員でした。だから新横浜駅に毎日。仕事で通っていた。仕事は、施設警備員。エレベーターやエスカレーターを起動させること。閉店の際の自動ドアの戸締り。よく頑張りました。ノートを持っては、書いた。教えてくれる警備員がまた二枚目でまだ20代後半。今でもAEONモール本牧で警備員しているかと思います。なんで警備員して居るのか。サッパリ分からなかった。警備員は、どこかそこら辺の土方のおっちゃんの仕事だと思っていた。仕事が全国的になかった時でした。たしか3・11。から少しだけたつたばかり。あの原宿駅と渋谷駅の間にある有名な神社⛩の中にブルーシートが山のように開いていました。数ヶ月経つと、デパートの中を歩くのも退屈してきた。慶一の悪い癖が出た。女性の下着売り場ばかり警備に行っていた。それも無意識に行くだなぁ。華やかで楽しかったです。女性の下着売り場の周りをぐるぐる回っていた。けっして触ったとかは、コッソリ持って来たとかは、してません。そしたら、多分そこでクビになりました。友達も出来なかった。警備員は、友達が出来ない。と思います。何故か。わかりませんが?慶一は、なんで経験しております。JA。読売新聞。警備員。リゾートホテルのレストランの皿洗い。現在は、食品加工会社。なんでも見てみよう。そんな気持ちもありましたが、これではなんでも見過ぎた。相鉄線沿いに警備員宿舎があり。横浜駅西口には、よく遊びに行く。駅の構内が広くて。ただ歩いたりしていました。人が多くて。友達もいない。ただひとりで歩いていた。お酒は、飲まない。それなので喫茶店ばかり入っていました。スタバ。タリーズサンマルクドトール。その他ほとんど全部行きました。孤独でした。今も孤独ですが、横浜市での孤独は、キツかった。話し相手が居ないです。これは、詰まらない。下らない話でも、あるほうが良い。一日中話し相手が居ない。仕事していても、詰まらなかった。あの頃がどん底だったかもしれない。今から考えるとあの警備員宿舎は、良かった。鉄筋コンクリート2階建。部屋は8畳。トイレもお風呂も付いていた。部屋は2階の南側。近くにブックオフがあり、毎日通った。アナログステレオが安かった。スピーカーとアンプとCDプレーヤーを全部揃えても1万円で買えた。暗かった。ベートーベンの交響曲を1番から9番まで毎日聴いていた。その中でもベートーベン交響曲の1番と2番と4番を繰り返し聴いた。今でもベートーベン好きに会えば、すぐにわかることがある。ベートーベンの交響曲は、何番が、好きですか?と聞けは良い。第九とか第3。と答えれば、「ベートーベンを知らない。」と思います。傑作は、1番と2番です。CDを買うためのお金もなかった。それなので、野毛山の神奈川県立図書館までベートーベン交響曲全集指揮者ケンプ1960年代。を借りに行った。その後。みなとみらいがある場所からすぐ反対方向に山⛰がある場所へ、歩いたりした。途中で吉野家すき家の牛丼を食べたり。駅の蕎麦を食べたりした。バスが安かった。新横浜駅からどこまでも100円なのが、良かった。だから混んでました。慶一は、真面目ではなかった。いや真面目かもしれない。それでもひとり暮らしが何ヶ月も経った。最初は、楽しかった。だんだんと詰まらなくなった。ひと月が過ぎ、またひと月が過ぎてくると遊びに行きたくなった。大の男が喫茶店ばかり入っていても、そのうち飽きてきた。お金は、給与は、安かった。それでも幾らかは、使えた。休みの日の夜は、新横浜駅西口のネオン街にひとりで遊びに行きました。この後、秘密です。以上。あっと、ど忘れしていました。相鉄線大和市にも行きました。駅が小さくて。ホットしました。昔の高崎駅に似ていた。駅の周りには、立ち食い蕎麦。ドトールコーヒーAEON MALL横浜。どちらかというと横浜市よりも住み易く感じた。

横浜市新富町は、外国人が多くて。店に入ることが出来なかった。ロシア人から東南アジアまで歩いているだけで、怖かった。いったい此処は、何処の国かと思った。それに比べて大和市は、楽しかった。群馬県高崎市に帰ったかのように感じた。夜の街も出掛けました。ピンク系も行った。有名店があった。また行きたいと思う。横浜駅は、人々で大混雑していた。学生さんが多かった。横浜ビブレとその一階のスターバックスコーヒーが慶一の行きつけでした。警備員の休日は、ビブレと決めていた。若者が山のようにいた。その隣りにドンキホーテ。それで夜のマクドナルドに行くとリュックサックなどの荷物を持って席で一晩過ごす若者がまた多くいた。何故かしら裕福な学生さんと貧しい若者が二極化していた。どちらが本当なのかと思った。 横浜駅西口ビブレには、よく行きました。まだ数年前。リストラがあり。仕方がなく警備員をしていた。