お母ちゃんが居なくなれば。みんなが困るだろう!

「 お母ちゃんが居なくなったら困るだろう!」これが口癖でした。ほんとうに困った!母親は、ひとりしかいない。彼女は、いくらでも見つけられる。でも実の母親は、この世にひとりしかいない。晩年は、炬燵で寝転がるばかり。「 お母ちゃんは、こうしているのが一番好きなんだ!」たまに炬燵の上に置いてある手鏡を見て。「 あー!こんなに歳をとってしまった。」と言いながら。「 またお化粧して綺麗になりたい。」 内心では、綺麗な洋服も着ていたいと思ったのだろう!スズランデパートと高島屋が大好き。現金カードも見つかり。もう行かないからこれから処分する予定です。洋服は、メーカー品ばかり買っていた。イトーヨーカドーは、いいものがない。母ちゃんは、買わないよ!と言っていました。タンスには、山のように洋服がある。よくみると値段が高そうなものばかり。

悪いことをしてしまった。

ボクの責任でもある。同じ家に住んでいたのだから。父親が介護施設に連れて行っても反対もしなかった。父親が決めたことは、誰も反対が出来ない人間でもあった。反対しても言うことを効かない人でした。この性格が結局最後まで尾を引く。また隣り近所の誰も止めない。微かに。
いぬまのけいこちゃんが
鬼石町にも介護施設が出来ているけど。東京のお金持ちしか住んでない。だからみんな地元の人は行かないよ!とか。また誰かが危ないから近寄らない方が良いよ!とか。出来たら藤岡市役所の周りならば。少しは、安心だよ。とか。また藤岡市の福祉課を通した方が良いよ!とか。少し高いけど黒沢病院が良いらしいよ。とか。アドバイスをしてもらいたかった。介護施設は、絶対に辞めた方が良いよ!とか言ってくれない!


また父親が肝心な時に相談もしない。また父親は、普段から誰とも付き合わない。俺の同級生の〇〇は、藤岡市で大きな介護施設をやって大儲けしている。と勘違いしていました。あそこは、もう別の会社が入っている。ということさえわからない。医者をしている東京のおじさんからもLINEが送られてきた。「 あれに介護が出来る訳がない!」「 介護は、たいへんなんだ!」と書いてある。まずは、父親に優しさが無い。母親を庇うことすらできない。だからこんなことになったのだ!
まさか。こんなに早く死んでしまうとは、思っても見なかった。ときどき。介護施設を覗くと。後2年か3年は、大丈夫だよ!と言っていた。母親は、買い物の時に助手席で
かならず。介護施設には、行きたくないよ!あそこに行ったら死んだも同じだから。可哀想に。たったひとりでまるで姥捨山にお婆さんを捨てるかのように置いてこられてしまった。父親も母親の世話が出来ないから。連れて行ったのだろう。せめて光病院とかくすのき病院に連れて行ってもらいたかった。今日もクルマの運転をしていた。総合病院を見かけると。あそこに連れて行けば良かったと思う。たとえば。高崎市倉賀野町のサンピエール病院とか。緊急対応病院と書いてありました。病院ならばもう少しだけ生きていられたのに。父親に聴くと。青い空という介護施設が出来てきたので。遊びに行ったらしい。父親は家の敷地で介護施設を建設して経営者になるのが夢でした。たまに広告の裏に見取図を書いたりしていました。これが禍(  わざわい ) したかと思う。また一般病院の経営するのも夢でした。でも学校の勉強は、駄目でした。病院は、お金が儲かる。それが頭にありました。だから余計に母親を介護施設に連れて行ってしまう。その前にケア・マネージャーがズカズカと我が家に来ていて、嬉しそうに談笑していた。まるで詐欺師だと思った。第三者からは、嘘八百なのが手に取るようにわかる。直接話さないからわかりました。またなんでそんなところに行くのだろう。そんなところとは、民間介護施設です。相談してくれよ!病院ならばいくらでも探せただろうに!なんで介護施設が出来たかというと病院の医療費が嵩むから。介護関係だけを民間に委託したのだ。ということは、設備管理費用が
割安に出来ている。85歳のお年寄りがプレハブ工法の建物では、参ってしまうだろう!またこれは、真実かどうかまだ調べていませんが。介護施設にお年寄りをひとり入れると国から年間3百万円の助成金介護施設に入るらしい。だから尚更ケアマネージャーは、病気でもなんでも介護施設にお年寄りを入れたがるとのこと。まだ未確認ですが。だからなんです。うまい口車に乗ってしまった。


その頃。
ボクは何をしていたかというと。会社を辞めたり。また会社を捜したりしていました。情けないがパート社員したり。またパート社員したりと。時給900円の仕事を探していました。また農業用の田んぼの稲の泥つめとかしていました。確かあの頃も。なんとかすれば良かった。毎日毎日介護施設の前を通って田んぼの泥を軽トラックで運んでいたのだから。コロナ禍が始まったばかり。それでも高望みしなければ仕事はありました。その時は、上里町のジョイアス・フーズで働いていました。昼間寝て夜勤労働でした。まだ仕事を覚えたりで周りのことを考えている余裕が無かった。今考えるともう年金を貰っていたのだから会社勤めを辞めるべきでした。母親が介護施設で倒れた後に会社を辞めました。遅かった!悔やむ!