柚木怜先生の小説世界について❣️

官能小説家 柚木怜先生について!高度経済成長時代を描いています。豊かなのは、表面的でまだまだ日本は、貧しかった。天地真里とかキャンディーズが流行っていました。プロ野球では、王貞治長嶋茂雄が大活躍してました。ボクは。20歳ぐらいだと思う。柚木怜先生は、飾らずに赤裸々なところが凄いと思いました。

 


柚木怜

note

https://note.com/rei_yuzuki69

 

 

柚木怜のアトリエ

 


http://blog.livedoor.jp/rei_yuzuki69/

 

 


柚木怜先生は、京都市に生まれる。ボクよりも10歳ぐらい若いと思います。家は、貧しかった。父親が交通事故を起こした。二人を死なせてしまい。交通刑務所に入れられる。柚木怜先生は、スポーツが出来ない。体育が嫌いだった。中学2年生の頃。友達が居なかった。転校生がクラスに来た。明くんと言った。その子が公営団地に遊びに来ないか?と言われた。柚木怜先生は、団地の307号室に向かった。団地の中は、人気が無い。チャイムを押しても反応がない。少しだけ待った。そしたら。母親がシャワー浴びたばかりで出てきました。明は、買い物に行っているから。上がって待っててくださいね!と言われました。若い女性でした。多分まだ35歳ぐらい。夏休み中なので、薄着でした。誰もいない部屋で女性と一緒だから。柚木怜先生は、興奮してしまいました。女性の下着があり。トイレにコッソリ持って入り。オナニーをしてしまいました。明くんは、夏休み中に交通事故で亡くなる。道路にボール球を拾いに行きながら。突然。車道に飛び出して、クルマに撥ねられたらしい。柚木怜先生は、夏休みも終わりごろにまた。明くんの団地に行きます。もう明くんは、居ません。母親が泣いていました。お母さんは、柚木怜先生に抱きついて泣いていました。何故か。柚木怜先生は、興奮してしまう。薄着なので女性の肌がくっついてしまう。その時。柚木怜先生は、明くんのお母さんにオナニーをしてもらいます。息子さんの明くんもパンツに射精していたから。お母さんは、よく知っているのと言う。毎日のように先生は、団地に通っていました。ある日。たまには、外で蝉取りをしてから団地に帰ってきました。その日には、団地のお風呂に一緒に入った。もう歳だから。明くんのお母さんは、あんまり見ないでと言う。柚木怜先生は、興奮してしまいました。あそこは、恥毛が三角に生えていました。いったいあそこは、どうなっているのか知らなかったから。明くんのお母さんにその場所のかたちを教えてもらった。お風呂の中で初体験を済ませました。この後。明くんの別居中の父親が登場する。もう明くんの団地にいけなくなりました。柚木怜先生は、高等学校に入りました。京都府のとある学校でした。家が貧しかったので。新聞配りをしながら学校に通った。やはり友達も無かった。その場所は。長屋とかオンボロアパートが建ち並ぶ。ゴミゴミした汚いところでした。ある日。その汚い家の友達と一緒にテレビゲームをしていた。その子には、中学生の妹がいました。3人でひとつの部屋に入っていたら。友人がいもうとさんと抱き合っていた。柚木怜さんもいもうとを抱いて良いよと言う。そしてコンドームを貸してくれました。3人で抱き合った。ここにも衝撃を受けました。この後。この少年は、脳溢血で亡くなる。病気がちの少年でした。高校3年生になる。柚木怜さんに彼女が出来ました。その彼女と柚木怜さんは、この後。7年間も同棲していました。東京に作家になるからと上京して。板橋区かまたは、中央線沿線の西荻窪だと思う。この辺の小説は、官能小説というよりも自伝的小説だと思った。柚木怜先生は、大学に通わず。小説を書いたり。出版社に持ち込んだりしましたが。食べていけない。同棲中の女性が働いて支えた。それも23歳のときに。女性がもう。付いていけないからと実家に帰ってしまう。この辺は、よくわかる。あるちゃんとした会社に勤めたこともあるが、その会社の女性と深い関係になる。出版社でしたが、毎朝。会社の食堂で愛し合ったとか。それがバレてクビになる。かなり苦労していました。そんな失敗談も理解できます。ボクもそんな感じでしたから。勤めの帰りは、高崎市ピンクサロンなどの風俗ばかり行ってました。やはり作家では、食べていけない。その後。柚木怜先生は、風俗ライターになる。大衆の週刊紙の専属ライターをした。ここからも面白い。なんと40歳ぐらいの独身女性が出てきます。その女性は、優しそうでした。大手出版社勤務の女性。柚木怜さんが落ち込んでいる時には。かならず。板橋区のアパートに来ます。そして一緒に寝たりする。もう歳でも。身体も良かった。と書いていました。その時は、柚木怜さんは、23歳ぐらい。だから17歳も歳上でした。その部屋は、窓を開けても暗い場所。40歳ぐらいの女性は、アパートに来ると洗い物し。すぐに狭い部屋で服を脱いで。柚木怜さんと愛し合った。そこも良かった。柚木先生は、東京から久しぶりに故郷の京都府福知山市に戻る。柚木怜先生の小説は、架空では無い。そこが凄いと思った。事物を書く。事実とは。物語と事実です。物語を書く。これは。実は二つの事を同時に書かなければならない。まずは、物語を書く。それに事実を書く。事実とは、セックスでも良い。ちょっとだけ難しいが。簡単に言えば。セックスだけを書けば官能小説として良いのでは無い。そういう作家は、山のようにいる。だから読者は、読む気になれないんです。それは。物だけ書いてある事である。もうひとつ。周りの事実を正確に書く。だから読者は、おっと思うです。柚木怜先生の小説は、二つが書いてあります。最後に取り上げるのは、「兎が見ている。」です。25歳ぐらいになり。作家にもなれないで故郷の田舎町に戻る。周りは、田んぼばかり。沼からは、蛙🐸の声が聞こえてきた。クルマもないから。求人誌を見らためにコンビニに出かけた。歩いていたらお寺のお和尚さんの奥さんに出会う。柚木怜先生は、女性がそばに居ないと居てもたっても居られない。名前は、京香さんという。その女性と深い関係になる。女性と愛し合う事が大好き❤なので。ここで、やっと生き返った。と言う。

 

 

 

 


柚木怜著

① 官能小説 


明君のお母さんと僕


② 僕の告白 


日暮荘の穴人形


③ 官能小説 


姉のような母のような黄色い花


④ 官能小説 


兎は見ていた

 

 

を参考にしました。ありがとうございます😊😭‼️

書くとは、失われたものを復活させること。

ボクのために本をたくさん買っても何も言わない母親に

捧げます‼️母親は、本は読まない。趣味は、音楽だけ。カラオケばかり聴いたり歌ったりしていた。

 

 

 

母親は、弱かった。口ばかり達者で。実は。ボクら子供も達だけには、なんでも言っていた。だから強いと錯覚してしまった。死ぬ前の日もきつかった。なんでここに居るの!早く家に帰りな。と言った。そしたら。その日に倒れた。だから最後の日には、父親とボクといもうとには会いました。それが最後になる。最後の日は、お化粧もしていた。だから余計に元気に見えた。これでは、あと2年は、大丈夫だと思った。家に帰りたかったのだろう。もし訳無い。ボクが悪い。ボクは、少しは、親孝行が出来なかった。60歳になり年金貰っても食べていくことが出来無い。それなので夜勤で働いていた。その時。偶然にも家にお金がなかった。ボクは安心していた。お母ちゃんは、死なないと思っていた。でもさっさと死んだ。夜寝て居ても金縛りに会う。母親に会えない苦しみに悶えた。もう。ボクの人生は、終わったように思えた。

父親が悪い。普段から母親は、おかずでも父親に全部食べさせていた。母親は、残りものばかり食べていた。お母ちゃんは、ご飯が有ればいいのと言っていた。父親は、おかずしか食べない。贅沢ものでした。母親は、毎日毎日スーパーマーケットに行って。お父ちゃんが好きなものを買ってあげた。鮭や卵やウインナーソーセージを父親は、好んだ。母親は、糖尿病になり。大腸癌になり。こたつで寝てばかり。その内に父親が母親を介護施設に入れてしまった。もう弱っていたからすぐに亡くなりました。父親が悪いし。藤岡総合病院は、入院させてくれないのも悪いし。またボクが貧乏なのも悪い。お金が有れば高崎市の黒沢病院の介護施設に入れられました。やはり。稼ぎが悪いと家族を不幸にしてしまう。

新井慶一のプロフィールです。

新井慶一のプロフィールです。

アメーバブログを始めました。
お暇の人は覗いて見てください。ありふれた日常生活を書きながら過去の思い出を少しずつ書けたらいいなぁと思っています。俳句もあります。僕のプロフィールもあります。ユーモアたっぷりの文章を心掛けているので読むとくすくすと笑えるかと思います。始めて分かった事は、Word(ワードプロセッサー)の勉強になります。ワードには右側に寄せたり左側に寄せたり中央に寄せたりと複雑化していて面白い。写真も大きくしたり小さくしたり出来て便利。たまには文章の中ほどに写真を入れて記述にバリエーションをあたえることもできます。まだ始めていない方はFacebookより長い文章が書けて便利です。僕は、その日あったことを呟くだけでは物足りないのではじめました。TwitterでなくFacebookでなくブログがオススメします。先ずは書く。広く書く。できるだけ面白く書く。もともと人間はぐちゃぐちゃなのだからぐちゃぐちゃに書く。しかしながら、文章とは何であるかということを僕なりに考えてみました。孔子は、論語の中で政治とは何であるかと弟子たちに聞かれました。そのとき孔子は、政治とは愛情である。政は仁なりとお答えになる。孔子は、国家行政官僚で文部大臣や副総理でした。立派なお言葉だと思う。今の政治家も孔子を見習うべきあると思う。その瞬間に、ハット思い付いたことは、文章も愛情が一番大切なのではないかと思った。ケント・ギルバート先生は、もっとも優れた文章は、東日本大震災のときにお書きなられた天皇陛下のお言葉である。と本で書かれていました。僕もその文章をインターネットから検索して読みました。素晴らしい御言葉だと思った。その中には、愛情が哀惜が哀しみが書かれていました。優れた文章を書くことばかり考えていないで、愛情持って書くことが優れて文章になるものであると考えさせらました。政治も言葉も愛情表現である。それでは今後ともよろしくお願いいたします。
 伊阪幸太郎先生ののエッセイを読んでいたらノートパソコンのコードが足に引っかかりパソコンをテーブルの上から下に落とし壊してしまったそうです。バックアップしていなかったので原稿がすべてパーになってしまったという。ソレが頭にあつたから僕はフェイスブックの投稿文章をアメーバブログに引っ越しを考えました。ほぼ引っ越し完了。ウェイブサイトに保存するとパソコンが故障して起動しなくても文章や写真が消去されずに保存可能です。不意にログアウトしてみたり間違って削除されたりして大切な原稿が失われないようにブログを初めてみたらどうでしょうか。僕はUSBでの保存も考えてはいます。いつかは1冊の本を書き残すことが僕の夢ですから!

鎌倉の思い出‼️

鎌倉駅

 

 


江ノ電です。長谷駅がお勧めです。鎌倉の大仏様がおりますから。その近くに、ノーベル文学賞作家の川端康成邸もあります。

 

 


楽しかったこともちょっとだけありました。辛い事の方が多くて。
横浜・八景島シーパラダイス江ノ島水族館にも行きました。鎌倉駅からどちらも行けました。江ノ電に乗って湘南海岸を見ながら茅ヶ崎まで行った。夏の時期だけに海岸線には人が多かった。八景島は、鎌倉駅からバスが出てました。三浦半島経由でした。途中に葉山御用邸近くを通る。周りがヨット⛵️ハーバーになっていました。海がまるでハワイ島のワイキキビーチのように綺麗な青藍な色が広がっていた。鎌倉市まで来たら。湘南海岸もいいけど。三浦半島も良いと思った。バスは、山の中を走り突然だけどまた海辺に辿り着く。三浦半島の反対側に出ました。バスを降りると喫茶店があり。ドトール珈琲のチェーン店が道傍にあり。寄りたいが子ども連れなので辞めて置く。その目の前が八景島シーパラダイスでした。海の中にありました。イルカショーも見ました。水族館も見ました。海の生物は、変な生き物がある事に驚く。でも当時。ボク自身が時差ボケしていて。昼間から眠くて眠くて仕方がない事だけよく覚えています。夜勤者は、みんな経験があるかと思います。特に新聞印刷所は、年柄年中夜勤でしたから。

 


三浦半島近くの海です。海の色が青い藍色なんです。
湘南海岸も良いけど。こちらにも足を運んでみてくださいね?鎌倉駅からバス路線があります。途中。緑色の山⛰ばかりでした。


葉山町の海辺。

 

 

 


横浜八景島シーパラダイス

 

 


高崎線アーバン号。現在では、上野東京経由があります。普通乗車券に1000円プラスしてくださいね。

 

 


高崎線アーバン号。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ボクは読売新聞に勤めていた。夏休みになると鎌倉駅近くの読売新聞の会社の寮に行きました。家族全員で行く。3人の時もありました。子どもが産まれて4人になる。両親も連れて行きました。高崎線新町駅からアーバン号に乗る。たった一回だけグリーン車に乗った。確か1000円プラスしました。席のシートが良かった。窓から景色が違って見えた。お金持ちになった気がした。すぐにホットコーヒーを注文した。300円かかる。でも嬉しかったなぁ。列車に乗っておいしいコーヒーを飲むのが夢でした。朝早くだからまたコーヒーがうまい。ボクは、夕方とか午後は、コーヒー好きなのに。何故か味が悪く感じる。やはりコーヒーは、朝早くがうまい。その頃は、新宿経由でした。娘が澁谷109に行きたい!というから渋谷駅で降りたこともある。そのあと。大船駅で電車を乗り換えました。鎌倉駅に着くと。やはりリッチな気持ちになり。タクシーに乗った。僅か2キロなのですが。歩くと疲れるから。約1000円かかる。バス路線もありました。読売新聞の会社の寮は、綺麗でした。確か2000年齢前後だと思う。今から20年前。その頃も景気が徐々に悪くなっていた。大企業の倒産もありました。でもまだ日本は、明るかった。なんとかなると思っていた。会社の寮は、退屈でした。何もすることが無い。テレビを見た。新聞も読んだ。そしたらもうすることが無い。鎌倉の海岸まで300メートルあまりありました。この距離が微妙でした。歩くには、面倒くさいし。でも歩いて行きました。砂浜には、サーファーが居るばかり。海は、灰色。泳ぐには、イマイチ。海岸線には、3階建てのマンションがあり。低い建物も良いと思った。歩くと会社の寮がたくさんあり。住むには、良いところだと思った。海辺なのでいつも風が吹いていた。突然雨も降る。自由な気持ちになるし。どこか遠くの国に来たかのような気持ちになった。まぁ感覚的にキューバハバナとか。ハワイ島の北側の海辺の現地人の村村とか。インドネシアのバリ島々とか。行ったことは無いけど。
また夕飯が良かった。たった一人一泊二食3000円ぐらいなのに。おかずは、豪華でした。また知らない人がいっぱいいました。みんな家族連れでした。ボクと同じように小さな子供がいた。ボクの娘は、5歳あまり。嬉しさを通り越していた。裸で食堂に入ってきた。みんなが驚いた。どうもボクの娘は、その辺が面白い。他の会社と言ってもみんな読売系列でした。食堂内が裸で飛んできたから。わーわーと言っていた。料理は、シロウトコックさんでしたが。何故かうまかった。サカナ料理が多かった。カレイの焼いたのや。あとは忘れました。みんな読売系列でしたので。あまり騒がない。おとなしくしてました。でも共通していたのは、一家の大黒柱は、疲れきっていました。夜勤夜勤の連続。職場には、女性は皆無でした。夕方から翌日の朝まで。仕事がぶっ通し。とても人には言えない苦労をしてきた。事が分かる。会社の寮は、何故か会社の延長のような気持ちになった。だからあまり羽目を外す人達は、居ない。建物は、コンクリート製でデザインが変わっていた。出入りは、厳重なのも良い。ただ鎌倉市は、道が狭い。歩きたくともクルマが多いし。道に歩道が無いし。家家がビッシリなのがちょっとだけ不満。鎌倉市を歩いていたら。津波注意報の看板ごあり。500年前に鎌倉時代津波が襲った事が書いてある。その時には、鶴岡八幡宮まで波🌊が押し寄せたと書いてある。鎌倉の大仏様の屋根は、その時に沖に流されたらしい。まだ3・11のまえでしたから。その看板は、誰にも知られて無いようでした。
その時は、鎌倉の大仏を見学してました。ちょっとだけ江ノ電の停車駅まで歩いていました。家家の中に立派な建物があり。誰の家なのかと門柱を見たら。あのノーベル文学賞作家の川端康成大先生の家でした。ずいぶんと海辺なのに驚くし。道からは、単に平家の家でした。ただ作りとか木の材質は、高価なものを使っている事が分かる。側に寄って。文学的な気持ちとかインスピレーションでも貰えればとか思いました。でも家の側まで来ても何も浮かばなかった。あーあー。ここに住んでいたのか?と思っただけ。和風の日本家屋でした。

 


長谷寺の近く。ノーベル文学賞作家。川端康成邸です。

 

 

 

 

 


3階建てマンション。3000万円以上してました。
こうゆうマンションに無料で1年間住んでみたいと思いました。夏休みの1ヶ月でも良いけど。海辺は、こんなマンションが出来てました。

 


材木座海岸沿いのリゾートマンション。
ただ見ただけだよー。近くを散歩してました。

 

 

 

 

春の房総半島にて‼️のさか望洋荘の思い出‼️

セブンイレブンで夕食を買ってきました。こんな感じかなぁ。

 

 


ボクの母親は、毎年恒例で。3月になると千葉県房総半島に行きました。東金市成田市や近郊で植木の市場に出かけた。そこは一般の人も見学出来ました。が主に植木屋さんが自慢の植木を持ち込んでセリをしました。群馬県の3月は、まだ真冬ですが。千葉県は、春の訪れを感じる季節でもあります。父親と母親は、朝早くまだ暗いうちに群馬県を出発して千葉県には、朝の10時には到着しました。ボクも何回か運転手で同行しました。植木好きには、楽しいところでした。良い植木を見たり。いろんな種類の植木があり楽しい雰囲気でした。そこは、海辺で。すぐ近くには海岸線沿いに民宿がたくさん並んでいた。またそのやや内側の農家は、どの家も植木屋さんでもありました。千葉県では、有名なマキという植木がどこの家でも植えられていました。マキは、もともとは。房総半島の太平洋からの強風や北風などから守るために植えられたものでした。それがいつの間にか商業化されたのが植木屋さんの始まりらしい。母親は、多分ですが最初は、嫌がったかと思います。4トントラックを買うのも大反対していたから。その内に植木屋さんが好きになり始めたらしい。なぜかと言うとボクが働き始めて。あまり大儲けしなくても良くなったからだと思う。植木屋さんは、遊びぐらいがちょうど良い。儲けようとしても儲からない。暇つぶしぐらいでした。3月は、暖かくなり始めでそんな時期には、必ず民宿に泊った。一泊朝食付きで5000円。遊びに行く気持ちが無いと出来ない仕事でした。そこには2月3月4月の間に5回ぐらいは、行きました。母親は、鉢植えの小さな🪴花ばかり買った。父親は、マキを買った。鉢植えの花は、シャクナゲが多かった。特に母親は、洋風のシャクナゲが好きらしい。まだ家の片隅に2本か3本あります。マキも数本あります。やはり土地が違うせいかみんな枯れてしまった。また2000年代になると土地の値段が下がるのと同じで植木そのものも下がった。相場が訳10分のイチまで下がった。たとえば。10万円の松が
2万円で買えた。そうなるとどこの植木屋さんも続々と倒産した。ボクの家は、最初から遊び半分だから倒産は、しませんでした。急に父親がやる気が無くなった。やはり値段が下がると植木の市場も活気が無くなった。かつては、成田市で買った植木が那須塩原温泉郷に持って行くだけでお金になる事もあり。市場と市場を行ったり来たりしている植木屋さんもいました。
それがばったりと無くなる。植木の市場も開催されなくなりました。あれは、2003年あたり。もしくはあの
小泉内閣規制緩和なども関係しているのか。それは定かではないがあの頃から突然だけど植木屋さんがみんな倒産していきました。それでもその後も毎年恒例の千葉県房総半島には、出かけました。国民宿舎望洋荘に泊まった。近くにセブンイレブンがあるから。宿泊者達は、みんなセブンイレブンのおにぎりやお弁当で夕食にしてました。母親は、植木が好きで無かった。お金にならないし。その内に一緒に行き始めた。植木のセリにも参加したらしい。その頃は、まだ元気だった。その内に行くことも無くなった。父親もあまり行かなくなった。行きも帰りもセブンイレブンで買い物をした。たまに春日部あたりの山田うどんに寄った。反対車線だと大型車は入りづらいからコンビニが多かった。またお店もあるにはあるけどやはりコンビニの方が良かった。埼玉県加須市を通り田んぼや住宅地を抜けて大型車で走りました。母親と父親とボクの3人で行ったこともあります。道を間違えて東京都内に入った事もあり。だいたい成田市から柏市を抜けて野田市から加須市から熊谷市までのルートでした。熊谷市まで帰ってくるとホットしました。それから熊谷バイパスを走り。本庄市から上里町を通り藤岡市に戻って来ました。危ないから。ほんとうに事故が無くて良かった。まるで我が家は、山賊一家でした。


 千葉県国民宿舎のさか望洋荘の室内は、こんな感じかなぁ。

 


山田うどんの天ぷら蕎麦。千葉県野田市から埼玉県春日部市のあいだにありました。国道16号山田うどん庄和町店。ここから少し走ると。右に曲がる。幸手市に行き。加須市に行き。羽生市に行きました。

 


 

 

母親の思い出 その3

 

セブンイレブンで夕食を買ってきました。こんな感じかなぁ。

 

 


ボクの母親は、毎年恒例で。3月になると千葉県房総半島に行きました。東金市成田市や近郊で植木の市場に出かけた。そこは一般の人も見学出来ました。が主に植木屋さんが自慢の植木を持ち込んでセリをしました。群馬県の3月は、まだ真冬ですが。千葉県は、春の訪れを感じる季節でもあります。父親と母親は、朝早くまだ暗いうちに群馬県を出発して千葉県には、朝の10時には到着しました。ボクも何回か運転手で同行しました。植木好きには、楽しいところでした。良い植木を見たり。いろんな種類の植木があり楽しい雰囲気でした。そこは、海辺で。すぐ近くには海岸線沿いに民宿がたくさん並んでいた。またそのやや内側の農家は、どの家も植木屋さんでもありました。千葉県では、有名なマキという植木がどこの家でも植えられていました。マキは、もともとは。房総半島の太平洋からの強風や北風などから守るために植えられたものでした。それがいつの間にか商業化されたのが植木屋さんの始まりらしい。母親は、多分ですが最初は、嫌がったかと思います。4トントラックを買うのも大反対していたから。その内に植木屋さんが好きになり始めたらしい。なぜかと言うとボクが働き始めて。あまり大儲けしなくても良くなったからだと思う。植木屋さんは、遊びぐらいがちょうど良い。儲けようとしても儲からない。暇つぶしぐらいでした。3月は、暖かくなり始めでそんな時期には、必ず民宿に泊った。一泊朝食付きで5000円。遊びに行く気持ちが無いと出来ない仕事でした。そこには2月3月4月の間に5回ぐらいは、行きました。母親は、鉢植えの小さな🪴花ばかり買った。父親は、マキを買った。鉢植えの花は、シャクナゲが多かった。特に母親は、洋風のシャクナゲが好きらしい。まだ家の片隅に2本か3本あります。マキも数本あります。やはり土地が違うせいかみんな枯れてしまった。また2000年代になると土地の値段が下がるのと同じで植木そのものも下がった。相場が訳10分のイチまで下がった。たとえば。10万円の松が
2万円で買えた。そうなるとどこの植木屋さんも続々と倒産した。ボクの家は、最初から遊び半分だから倒産は、しませんでした。急に父親がやる気が無くなった。やはり値段が下がると植木の市場も活気が無くなった。かつては、成田市で買った植木が那須塩原温泉郷に持って行くだけでお金になる事もあり。市場と市場を行ったり来たりしている植木屋さんもいました。
それがばったりと無くなる。植木の市場も開催されなくなりました。あれは、2003年あたり。もしくはあの
小泉内閣規制緩和なども関係しているのか。それは定かではないがあの頃から突然だけど植木屋さんがみんな倒産していきました。それでもその後も毎年恒例の千葉県房総半島には、出かけました。国民宿舎望洋荘に泊まった。近くにセブンイレブンがあるから。宿泊者達は、みんなセブンイレブンのおにぎりやお弁当で夕食にしてました。母親は、植木が好きで無かった。お金にならないし。その内に一緒に行き始めた。植木のセリにも参加したらしい。その頃は、まだ元気だった。その内に行くことも無くなった。父親もあまり行かなくなった。行きも帰りもセブンイレブンで買い物をした。たまに春日部あたりの山田うどんに寄った。反対車線だと大型車は入りづらいからコンビニが多かった。またお店もあるにはあるけどやはりコンビニの方が良かった。埼玉県加須市を通り田んぼや住宅地を抜けて大型車で走りました。母親と父親とボクの3人で行ったこともあります。道を間違えて東京都内に入った事もあり。だいたい成田市から柏市を抜けて野田市から加須市から熊谷市までのルートでした。熊谷市まで帰ってくるとホットしました。それから熊谷バイパスを走り。本庄市から上里町を通り藤岡市に戻って来ました。危ないから。ほんとうに事故が無くて良かった。まるで我が家は、山賊一家でした。


 千葉県国民宿舎のさか望洋荘の室内は、こんな感じかなぁ。

 

母親の思い出 その2

 

ボクと母親は、顔がよく似てました。

 

 


お年寄りを介護施設に入れるのは、家族みんなで相談して決めましょう。ボクの母親は、ボクの父親がかってに入れてしまった。本人曰く。ケアマネジャーに判断を誘導されたからという。確かそれはある。しかしながらその後半年間。母親を介護施設に入れたまま忘れていたという。大切にする気持ちが無かったのだろう。父親にはそういう点がありました。大の動物嫌い。犬も猫も大嫌い。これが禍わさわいしてしまった。母親が居なくなると。もうあらゆる事がつまらない。本も読めない。音楽も聴けない。楽しみは、母親の声だけなのに。父親も冷たい。ボクも冷たい。妹も冷たい。家族全員が冷たい。これが親戚中の指摘でした。そのせいか。お葬式もお通やもまったく人が来ない。

実の姉もいました。家は、町田市。年齢は、90歳あまり。顔は似てない。ボクの母親の方がか弱い。やはり妹だから。姉ちゃん。姉ちゃん。と母親は、子どもの頃と同じように懐いていた。仲が良いと思う。その姉は、一番悲しんでいるだろう!いもうとだから。母親は、意外と子どもぽいところがあるから。姉ちゃんは、威張るか嫌だ!という。どんな話をしていたかは、聞かなかった。ただただ。兄弟が仲良さそうでした。母親は、5人兄弟。実家は、藤岡市本郷。家は、農家でした。一番下の弟さんは、30代半ばで病気で亡くなった。その上の弟さんも60代半ばで亡くなった。特に一番下に弟さんが亡くなったときは、母親の母親は、まだ生きていて。それはそれは。たいへんな悲しみだったろう。死ぬ間際に病室で
そばにいた母親に母ちゃん。蕎麦が食べたいよ!!と言って亡くなった。母親も実の弟さんだから病院に行っていました。そのあと。今度はその上の弟さんが亡くなる。たまに家に来ました。何しろお酒が大好きで
ビール🍺が出てくると大喜びしていました。その弟さんは、大腸癌か肝臓癌で亡くなった。母親は、弟さんが二人亡くなっていた。それに輪をかけて。またボク自身の家出も苦労かけてしまった。母親には辛い思いをさせてしまった。その時にストレスで梅酒を飲み過ぎて。それが原因で糖尿病になったと母親は、ボクの顔を見るたびに言った。ボクは、と言えば。大学は、6年間も行っているし。卒業しても就職もできず。また結婚も35歳まで独身でした。35歳になると心配でオートバイ🏍に乗って。神流農協の中山さんの家まで行ったりしたらしい。母ちゃんが行ってどうするのかと思った。またボク自身は、テニスオタクでした。朝から晩までテニスばかりしていました。テニスと結婚したかのようでした。女性に興味がなくなっていきました。女性が嫌いでした。もしかして。ボクは、ホモなのかと悩んだ事もある。友達の中里等と遊んでいる方が女性と話すよりも楽しかった。またボク自身も女性とお付き合いをしたことも無かった。でもたまには風俗に行ったりしたから。