城西大学理学部数学科1年の思い出!!

その頃は大江健三郎ばかり読まれていて。厳粛な綱渡りというエッセイ全集が流行っていた。慶一は買ったけどわからなくて困った。厳粛な綱渡りとはバージニア・ウルフの言葉で人生は綱渡り。綱から落ちるとそこには地獄しか無い!だから人間は綱から落ちないようにトボトボと歩くしか無いという意味でした。


慶一は城西大学理学部数学科に入学しても推理小説ばかり読んでいた。森村誠一アガサ・クリスティ。そしていつもなにしにきたのだろう。微分積分を忘れてしまった。線型代数学の意味がわからなくなった。今考えると。2つの二次関数を解く方程式でした。線型代数学という学問が高校生で勉強して来なかった。それは中学生の数学でした。学校にいかないし。クラスには溶け込めない。勉強はもうついていけなくなった。どうしようか?これから先が心配していた。それは今思い出しても辛い記憶でした。数学科の友達から線型代数学がパソコンの基礎だよ。と言われて。一生懸命に勉強するように言われた。でももうやる気がなくなっていた。
アルバイトもやる。東松山の東洋製缶とか。コカコーラの缶を製造するライン作業。川角から電車に乗り坂戸市で乗り変えて。東松山の駅で降りた。もう真っ暗なのに。数人の労働者がバス停で待っていた。そこから東洋製缶のバスで工場まで乗せて行ってくれた。話しを聞くと。池袋駅から来ているそうだ。背広姿で革靴を履いているが。工場に着くと作業着に着替えた。でも革靴は履き替えがないのでそのまま。革靴で働いている仲間が居た。そうしたら。サラリーマン風の人達は。一晩中働いて9000円なのに。手配師に1000円もピンハネされていた。慶一は18歳で社会の実体を見た。そして若い男性から驚く話しをした。数人の池袋駅から来ていた若者達は週末になると池袋のディスコに行くらしい。そこで女の子をナンパするためにお金を稼いでいると言っていた。ラブホテルの話しやセックスの話しを永遠と話していた。女の子とあれをやるのは最高だねー!とかそんな話しをしてました。慶一は別の世界を覗いた気がした。
たまには坂戸市の学生ローンでお金を借りたりした。また坂戸市の南口のピンクサロンに行ったりした。また。そのうちにストリップ劇場に出入りするようになる。だからテニス部でしたがたまには文学好きな部室にも出入りした。その中に文章を書いている仲間達がいた。その時。季節も忘れた。その友人の顔は髪の毛を長くして。ちょっとだけ。俺は文学通だよ!!と。言わんばかり。
そんな時。その文芸部の友人がいた。正直言って。あんまり期待してなかった。そして今思うと驚くことを話していた。


「 今の文学部の学生は大江健三郎ばかり読んでいるが。僕はそれよりも古井由吉の方が優れているし、ずっと上だよ!」と自慢げに話した。


誰だろう!古井由吉って!!慶一は、群像の月刊誌買って。いつかは芥川賞とるぞ!!と思っていただけに。そんな知らない作家の名前の名前が出たので。へえーと思った。確か数年前に芥川賞受賞した人だなぁ!!ぐらいしか知りません。だからショックだったなぁ。今でもその友人の顔を覚えている。大江健三郎は僕も知っていた。だからそれは驚かない。でも古井由吉の名前には驚いた。誰だろう!マイナーの作家だろう。それが天下一品の大江健三郎よりも上だ!!という言葉には衝撃的でした。しかしながら。古井由吉を僕が理解してのは。大学を卒業して。20年余り経ってから。確か40歳余り。県立前橋図書館で見つけた。古井由吉が金澤大学の助教授として赴任した時の思い出話しを読んで。良い作家だなぁと思った。確か冬の季節に下宿先の民間に大雪が降り。学生たちと雪降ろしをする話でした。この作家は事実をそのまま書いている。と思った。
また慶一の18歳の頃に戻ります。
その頃は。慶一は今でも孤独ですがこの頃も孤独でした。ホカホカ弁当が誕生した年で。たまに坂戸市南口に行くと。のり弁当を食べたりした。お腹空いてばかりなので。ほんとうにおいしかった。サカナのフライは熱くて。のりが乗っかっていて。めくると昆布の佃煮とカツオ節がありました。実家に帰ったかのようにおいしかった。数回は食べに行く。たぶん学生ローンを借りたりしたからその合間に行ったのだろう。


武州長瀬駅近くのアパートに帰っても友達がいない。学校から遠くて。歩いて行くと30分はかかりました。その時が一番寂しかった。夏目漱石三四郎森鴎外の青年を読むと。東京大学は楽しくて羨ましい。また女性にもモテる。城西大学に入学しても。何にもなくてつまらなかった。あの頃も珈琲が好きで。アパートの前に長瀬霊園があり。その坂道を登ると。もう名前を忘れてしまったが。城西大学薬学部で硬式テニス部でいっしょだった友達のアパートがありました。夕方から夜にかけて慶一は坂道を登って。そのアパートに行った。距離は1キロぐらいか?通ったのは確か1ヶ月ぐらいかなぁ!20回は通った。なんの話しをしてのか忘れてしまったが。珈琲を入れてくれた。それは感謝しかない。大学に入って一番嬉しかった。なんとその友達は珈琲豆からガラガラと砕いて。一杯ずつ入れてくれた。音楽が好きらしく。ムード音楽をかけてくれた。家はお金持ちだと言っていた。その当時。城西大学薬学部は授業料が高く。みんなお金持ちばかりでした。その友達は。行くと何にも言わずに。部屋に入れてくれた。2人でタバコを吸った。彼は友達が多くて。羨ましく感じた。なんの話しをしたのか忘れた。内藤さんの話しだろう。慶一は内藤さんが好きだったから。でももうその友達の名前もどこからきたのか?それも忘れた。確か。栃木県だと思った。親が製薬問屋の会社を経営しているとかその取締役だから。とか。そんな話しをした。別に嘘ではないだろう。家賃は毎月5万円ぐらいするだろう。その頃はだいたい一万円のアパートが普通だから。間取りが広くて高そうだし。ベットやステレオが置いてありました。その友達には何人も薬学部の友達がいて。またその友達はおしゃべりで。コミニュケーションがうまくて。慶一が部屋に入っていると。薬学部の人たちが数人きたりした。部屋が広くて。快適なところだから。溜まり場になっていた。慶一は薬学部だとかそんなの関係なく。いっしょにいたが。もともと話し下手なので。長い時間。いつも黙っていた。その友達は慶一が薬学部の友達と話しをしないし。いつも黙っていた。そしたら。新井!!俺の友達が来たのに挨拶もしないのか?と問い詰められた。それはショックでした。あ!そうか!そういう常識なルールさえわからなかった。それきりそのアパートには行かなくなった。ある日学食でその友達に会ったら。新井!!俺がちょっとだけ大きな声で詰問しただけで。もう一緒に珈琲を飲みに来ないのか?と言われた。慶一はその当時。おとなしかったので。当然。挨拶がどうのこうの言われたから。と言った。そしたら。あーそうかい!と言って別れた。あの友達も良いひとだったなぁ!なにをしているのか?たまに思い出す。


 もうひとりテニス部に広瀬という友達が居た。広瀬は都会好きので。アパートは川越市の駅前。数回行った。散らかし放題なので。ほんとうにゴミ屋敷でした。部屋に入らないぐらい物が置いてありました。靴を置く場所がなくて困った。教科書が無くなるだろうと思った。カップラーメンが好きらしく。でも広瀬はカップラーメンを食べながらカップラーメンをあんまり食べないようにしているとか言った。あんまり食べると病気になるから。カップラーメンは毒だから。そして僕はラーメンのお汁は残さずに飲む!!と言った。なんか。広瀬はアトピー性の皮膚炎らしく。俺はあんまり刺激がある食べ物は受け付けないとか言った。だからキムチとかそういったものは駄目だ!!と言った。広瀬は岐阜県から来て居た。家は呉服屋問屋をしているとか。実のお姉さんも城西大学薬学部で広瀬も城西大学薬学部だから。そうとう親はお金持ちなのだろう!と思った。だって兄弟で城西大学薬学部ならば。年間400万円も払うわけだから。