家族団欒の思い出❣️

 

母親は、生きているのが楽しそうでした。もっと生きたい。もっと!もっと!と言っていた。カラオケが大好き。紅白歌合戦も大好き。日帰り温泉も大好き。遊んでいるの時が一番嬉しそうな顔をしてました。孫が大好き❤。一番出来の悪い孫のもも香が特にお気に入りでした。おばあちゃんは、ももちゃんが一番好きだよ。と言ってくれました。ちょっとだけもも香は、かわってました。そんなところがお婆さんにそっくりなんです。ももちゃんと一緒にいると嬉しそうにしていました。家族揃っての一番の思い出は、クリスマスパーティーです。それも毎年恒例でした。母親と父親とボクと里菜とももちゃんとお婆さんと妻とみんな一緒に回り寿司を買ってきて食べました。ボクは、わざわざ高崎市のスシロー寿司まで取りに行ったりしました。ケーキもチョコレートケーキを高島屋で買ったり。苺の🍓ケーキの時もありました。ももちゃんも嬉しそうにしてました。母親もこの時は、特に嬉しそうになっていました。もう一度。母親にクリスマスパーティーをしてやりたかった。やっと大腸癌も克服して。まだ何年か生きてられたら。おいしいものをいっぱい並べてみんなが集まれば。どんなにか楽しかったかと思います。母親と父親には、できるだけの事をしてやれたと思います。孫だって見せたし。ボクは、参加してませんが。長野県上田市別所温泉。それに尾瀬国立公園那須岳。伊豆熱海旅行も行ったし。読売新聞の鎌倉保養所は、ボクも一緒に連れて行った。なんでかと言うと。新聞印刷所は、時差ぼけして昼間眠くて眠くてどこにも出かける気持ちになれませんでした。その間に家を新築しました。無理し過ぎだったかも。でもそんなものだと思う。人生は、一回だけだから。その後は、お決まりのローン地獄になりました。それも人生だと思う。その家の和室の6畳に集まりました。テーブルの上にスシローのお寿司とピザーラの宅配便も頼む。それに苺のケーキでした。ボクの給与が良かった。その時は、読売新聞群馬工場で働いていました。ちゃんと正社員でしたよ!製版課でした。検紙もしました。トラックに新聞の積み込みもやりました。意外とボクは、タフでした。見かけは、文学青年風なんですが。実は国体を目指す硬式テニス🎾オタクでした。タイプは、錦織圭タイプでした。ファハンドは、トップスピン。バックハンドは、両手打ちのフラットでした。今でもこのスタイルがお勧めです♪。1990年代後半から2000年の初めの頃かと思います。夜勤夜勤の連続でしたがもともと体力もあり少しも苦にならなかった。最初は、慣れなくて仕事が終わると缶ビールを飲んだりしました。その内にお酒を飲むと逆に疲れが取れないことが分かってお酒を飲むのをやめました。その頃が家族全員が嬉しくて。この頃が絶頂期でした。やはり良いことは長く続かない。その内に家族が集まる事が無くなりました。長女は、働きはじめました。母親は、亡くなってしまう。父親は、病気であまり遠くまで動けない。ボクは、定年退職して年金暮らし。世の中。なんでもかんでも100点満点には、いかない。

お母ちゃんが居なくなれば。みんなが困るだろう!

「 お母ちゃんが居なくなったら困るだろう!」これが口癖でした。ほんとうに困った!母親は、ひとりしかいない。彼女は、いくらでも見つけられる。でも実の母親は、この世にひとりしかいない。晩年は、炬燵で寝転がるばかり。「 お母ちゃんは、こうしているのが一番好きなんだ!」たまに炬燵の上に置いてある手鏡を見て。「 あー!こんなに歳をとってしまった。」と言いながら。「 またお化粧して綺麗になりたい。」 内心では、綺麗な洋服も着ていたいと思ったのだろう!スズランデパートと高島屋が大好き。現金カードも見つかり。もう行かないからこれから処分する予定です。洋服は、メーカー品ばかり買っていた。イトーヨーカドーは、いいものがない。母ちゃんは、買わないよ!と言っていました。タンスには、山のように洋服がある。よくみると値段が高そうなものばかり。

悪いことをしてしまった。

ボクの責任でもある。同じ家に住んでいたのだから。父親が介護施設に連れて行っても反対もしなかった。父親が決めたことは、誰も反対が出来ない人間でもあった。反対しても言うことを効かない人でした。この性格が結局最後まで尾を引く。また隣り近所の誰も止めない。微かに。
いぬまのけいこちゃんが
鬼石町にも介護施設が出来ているけど。東京のお金持ちしか住んでない。だからみんな地元の人は行かないよ!とか。また誰かが危ないから近寄らない方が良いよ!とか。出来たら藤岡市役所の周りならば。少しは、安心だよ。とか。また藤岡市の福祉課を通した方が良いよ!とか。少し高いけど黒沢病院が良いらしいよ。とか。アドバイスをしてもらいたかった。介護施設は、絶対に辞めた方が良いよ!とか言ってくれない!


また父親が肝心な時に相談もしない。また父親は、普段から誰とも付き合わない。俺の同級生の〇〇は、藤岡市で大きな介護施設をやって大儲けしている。と勘違いしていました。あそこは、もう別の会社が入っている。ということさえわからない。医者をしている東京のおじさんからもLINEが送られてきた。「 あれに介護が出来る訳がない!」「 介護は、たいへんなんだ!」と書いてある。まずは、父親に優しさが無い。母親を庇うことすらできない。だからこんなことになったのだ!
まさか。こんなに早く死んでしまうとは、思っても見なかった。ときどき。介護施設を覗くと。後2年か3年は、大丈夫だよ!と言っていた。母親は、買い物の時に助手席で
かならず。介護施設には、行きたくないよ!あそこに行ったら死んだも同じだから。可哀想に。たったひとりでまるで姥捨山にお婆さんを捨てるかのように置いてこられてしまった。父親も母親の世話が出来ないから。連れて行ったのだろう。せめて光病院とかくすのき病院に連れて行ってもらいたかった。今日もクルマの運転をしていた。総合病院を見かけると。あそこに連れて行けば良かったと思う。たとえば。高崎市倉賀野町のサンピエール病院とか。緊急対応病院と書いてありました。病院ならばもう少しだけ生きていられたのに。父親に聴くと。青い空という介護施設が出来てきたので。遊びに行ったらしい。父親は家の敷地で介護施設を建設して経営者になるのが夢でした。たまに広告の裏に見取図を書いたりしていました。これが禍(  わざわい ) したかと思う。また一般病院の経営するのも夢でした。でも学校の勉強は、駄目でした。病院は、お金が儲かる。それが頭にありました。だから余計に母親を介護施設に連れて行ってしまう。その前にケア・マネージャーがズカズカと我が家に来ていて、嬉しそうに談笑していた。まるで詐欺師だと思った。第三者からは、嘘八百なのが手に取るようにわかる。直接話さないからわかりました。またなんでそんなところに行くのだろう。そんなところとは、民間介護施設です。相談してくれよ!病院ならばいくらでも探せただろうに!なんで介護施設が出来たかというと病院の医療費が嵩むから。介護関係だけを民間に委託したのだ。ということは、設備管理費用が
割安に出来ている。85歳のお年寄りがプレハブ工法の建物では、参ってしまうだろう!またこれは、真実かどうかまだ調べていませんが。介護施設にお年寄りをひとり入れると国から年間3百万円の助成金介護施設に入るらしい。だから尚更ケアマネージャーは、病気でもなんでも介護施設にお年寄りを入れたがるとのこと。まだ未確認ですが。だからなんです。うまい口車に乗ってしまった。


その頃。
ボクは何をしていたかというと。会社を辞めたり。また会社を捜したりしていました。情けないがパート社員したり。またパート社員したりと。時給900円の仕事を探していました。また農業用の田んぼの稲の泥つめとかしていました。確かあの頃も。なんとかすれば良かった。毎日毎日介護施設の前を通って田んぼの泥を軽トラックで運んでいたのだから。コロナ禍が始まったばかり。それでも高望みしなければ仕事はありました。その時は、上里町のジョイアス・フーズで働いていました。昼間寝て夜勤労働でした。まだ仕事を覚えたりで周りのことを考えている余裕が無かった。今考えるともう年金を貰っていたのだから会社勤めを辞めるべきでした。母親が介護施設で倒れた後に会社を辞めました。遅かった!悔やむ!

母親の思い出 その1

現在では。
市光工業藤岡第二工場では、TOYOTAヤリスのヘッドライトを作っているそうです。その人は、八高線で合う。その従業員に聞くとコロナ禍で休みの日が多くてとぼやいていました。派遣社員だから残業が無いと給与が安くなって食べていけない。でもアパートは、派遣会社が手配してくれて無料だから。また
コロナの影響で仕事が減り、叶わないと言う。
立ち話の世間話です。
40歳あまりで独身らしい。頭が薄くなっていた。お風呂にも入って無さそう。リュックサツクを背負って
派遣社員として自動車工場を渡り歩いているようでした。でもTOYOTA系列だから、ましな方だとボクは言って起きました。クルマは、何を作ってますか?と質問してみました。TOYOTAヤリスだよー。と言う。
皆さん。TOYOTAヤリスに乗ってください❣️お願いします🤲。TOYOTAのクルマが売れないと群馬県藤岡市民が困りますから。
値段も安いよ。だいたい税金込み込みで標準装備ならばならば、160万円ぐらい買えますよ!スズキソリオよりもTOYOTAヤリスを買いましょう。スズキソリオは、カッコいいけど。

 

 

 

 

 


母親は、慶一には良くしてくれました。お弁当を毎日作ってくれました。まだ中学校も高校もお弁当持って行った。毎朝。母親は、5時に起きてご飯を炊いて。ほとんど毎日毎日。鮭の切り身とハンバーグを入れてくれた。学校に持って行くと飯塚が新井は、毎日毎日おかずがいっぱいで羨ましいとか言った。飯塚は、鬼石町三波川から来ていた。ボクもたまに飯塚のお弁当を除くとご飯ばっかりなのを覚えている。席がすぐ前なのでよく話したがあまり仲良く無かった。飯塚は、不良グループの山田と大沢と付き合っていた。学校までは、4キロありました。お弁当を持って教科書も持って自転車で走った。母親は、毎日毎日おかずを買いに出かけた。あの当時は、スーパートーエーが最盛期。母親は、クルマに乗れないから自転車か原付バイクだったと思う。母親は、食べることに夢中になっていた。それでいて。後年に糖尿病を患う。あれだけ健康第一を徹底していたから、母親の落胆ぶりは激しかった。やはり遺伝もある。また母親が白米好きなのもある。また蜜柑好きなのもある。あの頃。今も貧乏ですがもっと貧乏でした。母親は、苦労しました。父親が
大の勤め嫌い。他人と同じ飯が食えない。そこが最大の欠点である。だから母親は、パートで働きに行ってました。家に帰ってくると。楽しいよ。忙しくって!
食券を買って。お昼は、80円のかけうどんだけとか。もったいから一番安いのを買って食べるの!と言う。そういうときは、日替わり定食でも食べれば良いものをと思った。その頃は、質素でした。それでいてボクや弟のお弁当は、おかずをいっぱい入れてくれた。
自動車工場で働いた。まだTOYOTANISSANもライバル同士の頃。何か電子部品を組み立てる仕事らしかった。後ろにタイムウォッチ⌚️を持っている男性社員が
仕事振りを時間で測っているだよ!だからお母ちゃんは、さっささっさと手を動かして働いた。みんなよりもイクヨさんは、早いね!と言われて嬉しそうでした。母親は、明るく元気がよくて。いつもみんなを笑わせていました。女性の関西漫才師にも似てます。いくよくるよ。太った方に似てます。あれ!お母ちゃんがテレビに出てるぞ!と思った。名前も同じでした。母親は、イクヨ。漫才師は、いくよ。母親は、30歳過ぎから40歳ぐらいまで働いていました。友達も出来たとか言っていた。同じ村からも大勢働きに行っていました。だからお母ちゃんは、人気モノでもあった。それから農業もよくやりました。田んぼと畑と養蚕。桑切りもよくやった。児玉町の八丁八反まで桑切りに行った。よく我慢して働いた。たぶんあの当時では、村一番の働き物でした。友達は、小林セツさん。イクヨさんが癌で入院しただね!どうした!アイスクリーム一個持って来たよ!と言ってボクの家に来ました。
その小林セツも90歳になるがあまり最近出て来なくなった。母親は、パート社員を40歳過ぎに辞めます。話しを聞くと会社が使ってくれなくなったとか。その当時も厳しくて手早でなくなると使ってくれない。ガッカリしてました。そのあとは、ほうれん草を作ったり
イチゴを作ったりしましたが長続きしませんでした。
農業は、あたりハズレが多かった。でももう母親は、外に働きに出ることは無かった。父親が二トン車🛻のトラックを買って植木屋を始めた。でもお金にならない。損ばかりしていました。その頃は、慶一は農協に入る。少しは、家計の足しになる。しかしながら慶一はかなり出来が悪い。ほとんど給与は、本とCD💿を買って貰った給与は、みんな使ってしまった。初めは、藤岡市ユニーの本屋ばかり午前中から午後まで本屋さんで読書していました。その内に飽きて来た。高崎市学陽書房に行く。そんなに難しい本は、読まない。
森村誠一先生と椎名誠先生の本を読む。たまには、マニアックな植草甚一作品を全部揃えたりした。しかしながらモダンJAZZは、理解不能でした。マイルス・デイビスの名作クッキンとか名作リラクシンを買っても分からない。トランペットの音が掠れて出ない。変な音だと思った。返ってドラムのフィリー・ジョン・ジョーンズとかサックスのジョン・コルトレーンの方がうまいと思った。なんで農協に入ったからは、不明ですが。仕事が有れば良いかぐらいでした。後年になるとこれが大失敗であることがわかる。

パチンコ屋さんに行きました‼️

母親が亡くなってから生きる気力が無くなった。今日は、あそこに行ってきたよ!とか日帰り温泉に行ってきたよ!とか。お洒落な喫茶店に行ってきたよ!会話をする相手が居ない。母親に買い物に行くかい?と聞く事も無くなった。まさかおかずや蜜柑までひとりで行くことになるとは思いもしなかった。
だからと言う訳では無いが。
今日は、パチンコ屋さんに来ています。パチンコは、やりません。お金が無いし。お金がもったいなくて出来ない。でも一日中クルマに乗って動いていたから、疲れた。家でじっとしていられない。何かに突き動かされているかのように。あちらにぶつかりこちらにぶつかりと。ほんとうにヘトヘトになるまで動いていた。こころが下手ってしまった。風が身体を吹き抜けているかのような思いである。悲しくて悲しくて喪失感ばかり。普段からのガスト仲間とも話しが噛み合わないから遊ぶ気持ちがなくなった。たわいの無い話しも詰まらない。ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌのような気持ち。悲しみを通り越して虚しさと諦めのつかない後悔である。ガスト仲間達は、頭が良くて。たとえば。介護施設についても。よく知っていました。知らぬは、ボクだけでした。これも情けない。それは、あの雰囲気を見たら分かると言われました。調べるとか誰かに相談する前に、あそこの建物を見れば駄目だろう。介護施設に入れる予定なんか無いよ!と言われました。みんな知っている!介護施設に入れる人なんかいない。
だから。ボクだけ馬鹿でした。


パチンコ屋さんは、違った。気持ちが休まる。明るいし。またぶらぶらしていても店員さんが何も言わない。だからトイレに行ったり。大画面のテレビを見たりした。でも音が鳴っていて楽しそうなのでたまに寄る。ほとんどトイレ休憩なのですが今日は、のんびりしようと思ってきました。夕方遅かったのでパチンコ屋さん併設の喫茶店は、終了してました。でも雰囲気が良いので、ボクは気に入りました。ぶらぶらしていました。気晴らしになる。ボクの従兄弟の黒沢〇〇は、パチンコ依存症でした。買っても負けても毎日パチンコ屋さんに通っていました。それでもトントンで365日パチンコをしていたとか。それも上手いと思った。その従兄弟の黒沢〇〇は、60歳の年金貰う時期にパチンコ屋さんの駐車場で亡くなる。原因は、さっぱりわからない。死因もわからない。クルマの中で死んでいたそうです。でもその気持ちは、分かる。ボクもパチンコは、やりませんが。ここはのんびり出来る。頭の中の悩みも消えてくる。みんなパチンコをするのではなく。暗い気分をなんとか楽しくするために来ているのかもしれません。寒く無いし。ソファーは、綺麗でした。テレビは、大型テレビが📺つけっぱなし。上毛新聞もあるし。ここは極楽だと思う。喫茶店は、スターバックスコーヒーよりも高級感あります。場所は、高崎市倉賀野町。SuperD'ステーション倉賀野店。醤油ラーメンとカレーライスが税込290円。安いし。今度は、食べてみよう!

 

猫のように生きる!

 

曹洞宗
板橋興宗


代表作。
猫のように生きる。


仏教の悟りとは、
猫のように生きる事である。
板橋興宗

 


亡き王女のためのパヴァーヌを聴きながら。

 

 


お母ちゃんは、市光工業東平井工場で働いていた。もうひとつ。藤岡市藤岡の光電機。30代から40代まで。よく働きました。村の中でも働きものでした。確か10年間ぐらいだろう。毎朝自転車で工場まで走っていった。毎月10万円は貰えました。家は、貧乏でした。父親が働かない。それなので母親が働いた。制服は、上着は水色でズボンは忘れました。家の物干し竿にかかっていた。お母ちゃんの口癖は、「お金が貰えるのは、嬉しい。」その頃が我が家で一番景気が良かった。また一番貧乏でした。毎日。食堂でかけうどんだけ食べていたとか。値段が80円でした。何かほかに食べれば良いと思うが。母親は、何故かいつも節約していた。あー。今思えば。ご飯やうどんばかり食べていたから糖尿病になったのだろう。貧乏性が悪い方に行った。その時は、わからない。母親は、自分の食べるものを節約してまで家族のために働いていました。母親も嬉しそうに働いた。友達も出来たよ。上宿の入さんとか。あとは、もう忘れましたが。村の中でも元気の良い女性は、働きに行きました。何人も女友達で出来て話しをしたりすることがまた楽しげでした。
友達好き。カラオケ好きでした。また料理好き。白石のスーパートーエーが開店していた。たまにはスーパータカハシにも行く。母親が山のようにおかずを買ってきた。
まだ市光工業がスタートしたばかりの頃です。周りは、米麦養蚕農家ばかり。市光工業東平井工場は、1970年頃だから。まだTOYOTAでは無く。NISSANだけだった。また工場というものが周りに無かったから。最初は、まるで刑務所かと思った。噂では、後ろに監督が立って作業効率を見ていたとか。作業が遅いとすぐに使って貰えないとか。でかい建物が田んぼや畑の真ん中に出来てきてきた。母親は、その中でいつも一番早いとか。また正社員に褒められたよ。と家で自慢した。働きにくる人達は、万場町などの山の方の人達が多かった。農繁期は、米と麦と養蚕をしました。4月から11月まで農業をしていました。だいたい11月から4月までの期間工でした。私は、勤めは、いいよ!お金になるから。農業は、嫌だ。お金にならない。母親が稼いで来てくれたお金で冬場は、生活してました。ボクはまだ中学生か高校生だった。親戚の人にその話しをすると。「エライねぇ!なかなか出来ないよ。」「 女性が工場に働きに行くだけでもたいへんだ。」ボクもそう思います。隣り近所でもそんなタフな女性は、いない。生まれてから一生のあいだ家から外に出て来ない女性も多いし。それなのに子供も3人も育て。その間も米麦養蚕の農業をして働き。尚且つ工場に出ていたことを驚いていました。
また父親は、お金儲けには縁が無かった。また外に働きにもいけなかった。家の中で威張っているだけ。外に出ると萎縮していました。村の中でも話しは、出来ない。相手との会話が苦手でした。だから何にも得られない。話し嫌い友達嫌い。これは致命的な欠点でした。世間話から農業を理解したりまた地域全体で農業を進めていかなければならないのにその仲間に加わわれない。孤軍奮闘作戦ばかりしていた。たったひとりで農業したりその後は、造園学も手にする。しかしながらいつ嫌になって辞めるか時間の問題だとみんなが思っていた。またどこか暇潰し的なところもあり。造園業は、父親の性格によく合いました。木が好きだ、と言う田村隆一さんの詩を感じていたのか。だから母親が85歳になるのに毎日毎日。一日中。木を見ていたのだろう。木のそばにばかりくっついていた。可哀想な事をしました。80歳前後は、母親は、働けないで炬燵から出られないで寝てばかりいました。父親がひとりで田畑に出た。それが疲れて嫌になったのだろう。母親を介護施設に入れた。そしてすぐに亡くなった。もう母親のことを忘れたと言う。残酷だろう!母親が60年以上も外に出て働いてきたのに!それは、やってはいけない事だ!炬燵で寝てばかりいたから介護施設に入れるなんて。人間として失格だと思った。父親は、何にもわからない。もちろん文学もわからない。学問も身に付かない。何故かというと。学問は、猫だから。学問とは。猫を大切にすることなんだ。猫が神様だよ!とボクが教える。俺ん家の慶一は、馬鹿になった。慶一!精神病院に行った方が良いなど言う始末。か弱い生き物の大切することが学問なんだ!生き物を飼うのは、遊びだけでは無い。ボクは、祈りだと思う!父親は、祈りなんかしない!坊さんは、金儲けだけだと言う。しかしボクはそれでも神様はいる。お寺には、神様が居ない。神様は、自分の家の猫だから。それさえわからない。曹洞宗板橋興宗先生が著作に書いていた。

 

 


田村隆一さんの有名な詩。木。

母親を亡くしてしまった!!

母親のために書きます!母親に親孝行出来なかったので書きます!ボクもそのうちにお母ちゃんのところに行くから。ボクの生命もそんなに長くはないだろう。
気力が無くなってきたし。何をしてもつまらないし。
もうすることは、ほとんどしてみたし。やることもないし。でも娘が二人いるから。なんとなく生きているだけ。


柳美里さんの言葉。


頑張るのは、もう疲れた!
もうリタイヤしよう!
人生をやめようかなぁ?
そんな感じかなぁ。


  

 

 

 

 


新井イクヨは、温泉♨️が好きでした。80歳になっても出かけた。遊びに出かける時は、🍙お握りを作った。ウィンナーを焼いたりした。外で食べるとお金がかかるから。いつも元気で怒ってばかりいました。早く働いてこいとか。みかんが無い。台所で大騒ぎしていた。口癖は、お母ちゃんがいなくなればみんな困るだろう。と言った。その通りになりました。

母親が亡くなってからひと月あまり経つ。身体の中に隙間風が吹いているかのような寂しさを感じた。もう慶一は、生きているのが詰まらなくなった。早く死にたい!早くもう生きるのが無駄だ!!なんで!なんで!という後悔ばかり先だつ。また悪い事をした!という自責の念もある。また誰も考えない。また責任の所在さえ明らかにならない。だからこんな結果になったのだ。その時貧乏なのもある。誰もが働かなければならないから。唯一父親は、もう判断力停止していた。また難しいと思った。誰もが介護施設にお金を払っているのだから、それなりにしてくれると思った。しかしながら結果は、介護施設は、マイナスになるだけでプラスにはならない事がわかった。父親が特に悪い。半年間ものあいだ。一度も介護施設にお見舞いに行かない。その間。家にずっといた。仕事は、バックホーンで石🪨コロ遊び。なんでなんか。やはり介護施設から派遣されたケア・マネージャーが親切で優しいから。母親も同じようにされていると錯覚してしまった。しかしながら彼等は、入所者には、冷たい対応しかしない。彼等は、お金が目的だから。お金の出どころだけ親切にしていた。母親にお金を持たせて無いからだと思う。恐ろしい社会だ。こちらが注意していないと足元を掬われる世の中になる。なんでこれほど病院のベッド数が少ないのかと思う。またなんで病院を探すことを怠ったのか?確かに藤岡総合病院は、駄目でした。でも病院は探せばあるだろうに。一番最悪の場所を選んでしまった。その時。慶一は、その場にいたのに。慶一も考えるべきでした。60歳あまりで年金を貰い始めたばかり。また母親は、何も言わない。クルマも乗れない。スマホやガラ携帯も持たない。自己主張出来ない。ここは、嫌だよとか。早く家に帰りたいよ!とか言ってくれ!わからないだろう。また介護施設もお金になるから出さない。むざむざと死ぬのを待っていたということか。父親も悪い。一冬の間。石🪨コロ遊びをしていた。なんであんなことばかりやっているのか分からない。お母ちゃんのことは、忘れていた。というばかり。そんなバカな。なんという人間だ!!60年も一緒にいて。相手と話しもできない。出来るだけのことをすべきだろう!!それには、理由がある。ケアマネージャーが好きなようにやる。いかにも大切にしているかのように連絡にくる。あんなケアマネージャーを信用し過ぎた。だから家族みんな無責任になった。ケアマネージャーも少しは、考えてください。いくらノルマがあるからと言ってもまたお客様なのだから。最善を尽くすことを教えて貰いたい。ほんとうのことを話してもらいたい。亡くなった時も呆れた話しをしていた。

  ケアマネージャーの言葉!「 病院に入れてお金をかけていたら、そのお金で子ども達にお金が行かなくなるだろう。だからお年寄りは、介護施設で早く亡くなって貰った方が地域全体の為なんだと言われました。」アーそうか!それがケアマネージャーの心の内側だと思いました。所詮他人家の事か!だからあれほど無責任になれるのだろう!それならば最初から親切に対応などしないでくれ!最初にお年寄りを病院に入院させらつもりが無かったのだ!ケアマネージャーを家に入れてはいけない。冷た過ぎる。これからもボクの家にからようならば、介護施設も絶対に実名を出してやるつもりだ!でも流石に母親の葬式の後からは、あまり来なくなった。ひとりの人間が死んだのだから。来られないだらう!ケアマネージャーが母親を殺したと思っている。何故か。その人が来てから母親は、死んだのだから。慶一も悪いと思った。その頃は、コンビニ工場で働いていた。コンビニ工場は、きつい。給与は、安い。またパート社員なので待遇も悪い。大手コンビニチェーン出した。仕事が終わると疲れた。でもむかしからのくせにで夜遊びばかりしてしまった。母親の事は、頭の中から消えていた。また休日は、喫茶店周りをしていた。スマホとノート型パソコンを持ってお洒落なカフェで遊んでいた。その頃は、ヘンリー・ミラーの自伝的な小説。ニューヨーク編を読んでいた。この時に母親の介護施設にも顔を出して居れば良かった。母親は、この時辛かっただろう。父親は毎日毎日石🪨コロ遊び。長男は、喫茶店遊び。妹も仕事で来られない。だからお母ちゃんは、死んだのだ。ケアマネージャーばかり悪く言う訳には、行かない。やはり問題点は、市民病院が少ない。公立総合病院が少ない。もっともっと病院にチカラを入れて貰いたい。誰でもボクのブログを読んだ政治家の方々は、何が何でも市民病院を建設してください。ボクは、病院を見るたびに大型病院を作らなければいけないと思う。これからもっと高齢化社会が来ます。コロナ禍も100パーセントの終息がないかもしれません。そのためにも市民病院を作ってください。お願いします。母親の介護施設の死を無駄にしないためにも。よろしくお願いします🤲🥺。

病院に母親を連れて行ったのは。もう二年前の10月。これが最後のチャンスでした。この時。藤岡総合病院は、一週間だけ入院しました。しかしながら藤岡総合病院には、入院棟がありません。一時的な入院施設だけなんです。出来るだけ早く。すぐそばに病院の入院棟を建設してください!この時は、母親は、肺炎になる。母親は、強かった。風邪からの肺炎をすぐに治してしまった。母親は、また強いと勘違いしてしまった。これが最後のチャンスでした。ボクは母親の実家の母親の兄貴に悪い事したと思った。この時に富岡総合病院に何が何で連れていけたら。もっと生きられたと思った。母親にも申し訳ない無い。ボクがあまりにも無知でした。指示が出来ないような雰囲気でした。辛い思いを母親にさせてしまった。介護施設は、あまりにも悪過ぎた。あれでは。地獄だった。最後の一年を母親を地獄に連れて行ってしまった。

 


 兄弟も3人いてもなんらかの案も出ない。みんなお金お金という。お正月に来ても母親の面会さえしない。工業団地のお金をよこせ!金よこせ!でも母親の生命よりもお金お金という。それが一番嫌だ。なんでお金なんだ。それよりもお母ちゃんの病院を探すことだろう!なんで誰も気がつかない。誰も面会さえ行かない。父親も特に悪過ぎ。一度も行かなかったという。呆れて!呆れて!また介護施設も内容が悪い。アーあ。こんなものを誰が作ろうとしたのか?介護施設ぐらい非人間的なものは無い。それが悔しい。誰が作ろうとしたのか?こんなものを作ってお年寄りが可哀想過ぎる。お年寄りを捨てる場所になって居る。

 

 

ボクは、母親に親孝行が出来なかった。ボクを産んだ母親に何もしてやれなかった。母親には、最後の時から数年前に万座温泉♨️に連れて行った。紅葉が綺麗でした。それが最後の親孝行になった。思い出すのは、帰りにスーパーベイシアで買い物をしました。あれは、

室田だと思う。草津街道沿いにある。いっぱい買って帰りました。その後もスーパーベイシア吉井店にも行った。その時。お母ちゃんは、歩くのが遅いなぁ!いくら駐車場の道路でも危なかった。その時から足が弱っていたのだろう。その前の親孝行といえばもう無いけど。ボクの娘二人と父親と母親と全部で5人で藤岡市かっぱ寿司に行った思い出が最後になりました。

母親は、おとなしそうに黙って食べていました。お母ちゃんは、鉄火巻きが好きでした。いつもかっぱ寿司に行くとお母ちゃんは、鉄火巻きだけだよ。と言って食べていた。その前の前は、ファミリー・レストランココスでお昼のランチを食べに行きました。嬉しそうでした。母親は、家族揃って居るだけで楽しそうにしてました。ボクがスマホから写真を撮ろうとすると嫌がりました。もう歳だから。映さないでと言った。

母親は、ももちゃん!ももちゃん!と言ってました。ボクの一番下の娘です。お母ちゃんは、ももちゃんが一番好きだよと言っていました。またお母ちゃんは、りなちゃんが結婚するまで、おばあちゃんは生きているからね!と言っていました。りなも篠塚病院に来てくれました。おばあちゃんの顔を撫でていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母親の思い出

 

 


現在では。
市光工業藤岡第二工場では、TOYOTAヤリスのヘッドライトを作っているそうです。その人は、八高線で合う。その従業員に聞くとコロナ禍で休みの日が多くてとぼやいていました。派遣社員だから残業が無いと給与が安くなって食べていけない。でもアパートは、派遣会社が手配してくれて無料だから。また
コロナの影響で仕事が減り、叶わないと言う。
立ち話の世間話です。
40歳あまりで独身らしい。頭が薄くなっていた。お風呂にも入って無さそう。リュックサツクを背負って
派遣社員として自動車工場を渡り歩いているようでした。でもTOYOTA系列だから、ましな方だとボクは言って起きました。クルマは、何を作ってますか?と質問してみました。TOYOTAヤリスだよー。と言う。
皆さん。TOYOTAヤリスに乗ってください❣️お願いします🤲。TOYOTAのクルマが売れないと群馬県藤岡市民が困りますから。
値段も安いよ。だいたい税金込み込みで標準装備ならばならば、160万円ぐらい買えますよ!スズキソリオよりもTOYOTAヤリスを買いましょう。スズキソリオは、カッコいいけど。

 

 

 

 

 


母親は、慶一には良くしてくれました。お弁当を毎日作ってくれました。まだ中学校も高校もお弁当持って行った。毎朝。母親は、5時に起きてご飯を炊いて。ほとんど毎日毎日。鮭の切り身とハンバーグを入れてくれた。学校に持って行くと飯塚が新井は、毎日毎日おかずがいっぱいで羨ましいとか言った。飯塚は、鬼石町三波川から来ていた。ボクもたまに飯塚のお弁当を除くとご飯ばっかりなのを覚えている。席がすぐ前なのでよく話したがあまり仲良く無かった。飯塚は、不良グループの山田と大沢と付き合っていた。学校までは、4キロありました。お弁当を持って教科書も持って自転車で走った。母親は、毎日毎日おかずを買いに出かけた。あの当時は、スーパートーエーが最盛期。母親は、クルマに乗れないから自転車か原付バイクだったと思う。母親は、食べることに夢中になっていた。それでいて。後年に糖尿病を患う。あれだけ健康第一を徹底していたから、母親の落胆ぶりは激しかった。やはり遺伝もある。また母親が白米好きなのもある。また蜜柑好きなのもある。あの頃。今も貧乏ですがもっと貧乏でした。母親は、苦労しました。父親が
大の勤め嫌い。他人と同じ飯が食えない。そこが最大の欠点である。だから母親は、パートで働きに行ってました。家に帰ってくると。楽しいよ。忙しくって!
食券を買って。お昼は、80円のかけうどんだけとか。もったいから一番安いのを買って食べるの!と言う。そういうときは、日替わり定食でも食べれば良いものをと思った。その頃は、質素でした。それでいてボクや弟のお弁当は、おかずをいっぱい入れてくれた。
自動車工場で働いた。まだTOYOTANISSANもライバル同士の頃。何か電子部品を組み立てる仕事らしかった。後ろにタイムウォッチ⌚️を持っている男性社員が
仕事振りを時間で測っているだよ!だからお母ちゃんは、さっささっさと手を動かして働いた。みんなよりもイクヨさんは、早いね!と言われて嬉しそうでした。母親は、明るく元気がよくて。いつもみんなを笑わせていました。女性の関西漫才師にも似てます。いくよくるよ。太った方に似てます。あれ!お母ちゃんがテレビに出てるぞ!と思った。名前も同じでした。母親は、イクヨ。漫才師は、いくよ。母親は、30歳過ぎから40歳ぐらいまで働いていました。友達も出来たとか言っていた。同じ村からも大勢働きに行っていました。だからお母ちゃんは、人気モノでもあった。それから農業もよくやりました。田んぼと畑と養蚕。桑切りもよくやった。児玉町の八丁八反まで桑切りに行った。よく我慢して働いた。たぶんあの当時では、村一番の働き物でした。友達は、小林セツさん。イクヨさんが癌で入院しただね!どうした!アイスクリーム一個持って来たよ!と言ってボクの家に来ました。
その小林セツも90歳になるがあまり最近出て来なくなった。母親は、パート社員を40歳過ぎに辞めます。話しを聞くと会社が使ってくれなくなったとか。その当時も厳しくて手早でなくなると使ってくれない。ガッカリしてました。そのあとは、ほうれん草を作ったり
イチゴを作ったりしましたが長続きしませんでした。
農業は、あたりハズレが多かった。でももう母親は、外に働きに出ることは無かった。父親が二トン車🛻のトラックを買って植木屋を始めた。でもお金にならない。損ばかりしていました。その頃は、慶一は農協に入る。少しは、家計の足しになる。しかしながら慶一はかなり出来が悪い。ほとんど給与は、本とCD💿を買って貰った給与は、みんな使ってしまった。初めは、藤岡市ユニーの本屋ばかり午前中から午後まで本屋さんで読書していました。その内に飽きて来た。高崎市学陽書房に行く。そんなに難しい本は、読まない。
森村誠一先生と椎名誠先生の本を読む。たまには、マニアックな植草甚一作品を全部揃えたりした。しかしながらモダンJAZZは、理解不能でした。マイルス・デイビスの名作クッキンとか名作リラクシンを買っても分からない。トランペットの音が掠れて出ない。変な音だと思った。返ってドラムのフィリー・ジョン・ジョーンズとかサックスのジョン・コルトレーンの方がうまいと思った。なんで農協に入ったからは、不明ですが。仕事が有れば良いかぐらいでした。後年になるとこれが大失敗であることがわかる。