城西大学の思い出 ②

 

みさお食堂。よく通いました。店は、カウンターだけ。10人も座ると満杯。漫画の本があり。毎回行くたび読む。植田まさしの「かりあげ君」がベストセラーでした。ボロボロの本を笑いながら、カウンターで読んでいたのを思い出します。チキンカツは、おいしかった。揚げたてのカツにソースをかけて食べました。その食事が僕を支えてくれたと思う。友人も出来た事も嬉しかった。大学は、辛い。勉強どころか、食べることで頭からがいっぱいだし。ひとり暮らしは、寂しくて男友達も必要でした。新原も四方も僕に、性格がよく似ていた。ぐうたら。ナマケモノ遠藤周作安岡章太郎。のエッセイを絵に書いた人物でした。でも肝心なところは、真面目。たとえば、お金の貸し借りは、絶対にしない。学生時代は、お金の貸し借りで友人を失っていた。お金の使いかたで僕は、友人を選んでいたような気がする。新原は、実家が裕福なのか。通帳には、母親が100万円も毎月入れてたという。しかしながら本人は、世界一ケチでまた質素でした。部屋の中は、僕よりも汚なかった。趣味もたいしてなし。なんとなく学校に通っていた。みさお食堂のメニューは、チキンカツだけ。周りには、城西大学のアパートが立ち並ぶ。福島荘から歩いて5分、夕方から夜にかけて、週に3回は、通った、食べるのは、全員がチキンカツ定食、ご飯。どんぶりで食べ放題。かならず2杯食べてました。隣りの部屋の四方と新原に声をかけていく。友達も居なかったので、四方と新原に会えたのが唯一の支えでした。部屋では、当然勉強ぜず。ソニーのラジカセでサザンオールスターズステレオ太陽族を繰り返し聴いていた。カセットテープには、それにいなせなロコモーション。も入っていて。繰り返し大音響で聞いた。上の階の富沢が「煩い‼️静かにしろ‼️」とお声で怒鳴る。人に迷惑ばかりかけていました。値段は、400円、その当時でも高いけど。お昼寝も食べずに食い溜めしてました。アパートに帰るとまた次の昼間まで寝ていた、懐かしい思い出。かならず半分のチキンで一杯食べて。残りの半分でもう一杯食べてました。勉強もしないで。アパートの名前は、福島荘。隣りが女子寮。また第3福島荘もありました。その建物は、まだ健在。第一福島荘は、ファミリーマートのコンビニに変わる。僕が住んでいた部屋は、ひと月一万円。仕送りは、最初は、5万円。最後の頃は、7万円。部屋は、万年布団に周りにも、タバコの灰皿。流行作家は、大江健三郎開高健。どちらかというと開高健のファン。それも開高の小説は、まったく理解できず。白いページと開口閉口とか。エッセイばかり読んでいた。詩人も好きでした。萩原朔太郎室生犀星も読む。部屋の中では、炊飯器も冷蔵庫もあったが使わない。夜になると四方の部屋に遊びに行く。ステレスを持っていて。よく聴いた。インスタントコーヒーが二人とも好きなので、一番でかいネスカフェの大瓶を持って行きました。砂糖もミルクも使わずにブラックで飲んでいた。煙草もよく吸った。セブンイレブンが200円。ハイライトが180円。たまには、東京までコッソリと出かけた。新宿の紀伊国屋書店には、かならず通った。洋服は、灰色のスラックスに紺のカーディガンというインテリア風ない格好。ひとりで井上ひさし原作の藪原検校やイーハトボーの劇列車などを観た。主役は、寂しいの財津一夫さん。劇団にも入り、俳優にもなりたかった。でもどこに行ったら良いのかわからないから、また東武東上線で帰ってきました。
あの頃も今も先が見えなかった。でもまたあの当時の方が未来があったなぁ。授業は、出席しただけ。ただ経済学部は、簿記原理が必修科目なのが、辛かった。前期後期両方ともゼロ点なら、当然ですが落第。前期試験がゼロ点でした。良く分からない。後期試験は、焦った。もしゼロ点ならまた落第。なんとか後期試験は、100点満点で合格した。後期試験は、精算表と損益計算書を書く事。意外と難関。こればかりは、高度経済成長とか。書いてもお茶を濁しても駄目。ここは、落とし穴かも。年代は、1980年。なんで覚えているかというとジョン・レノンがニューヨークで暗殺された年だから。はっきり覚えています。あれから40年も経つのかと早いような遅いような。関越自動車道もこの頃開通。でも高速料金が高くて乗れませんでした、国道254を越生から小川町。寄居町。児玉町。を通りクルマで家に帰っていた。山の中をくねくねした道をよく通った。八高線もよく乗りました。家は、農家。米麦。養蚕農家。貧乏でした。やっと学校に通う。それでも大学だけでも出て置いた。授業は、かならず出席した。もう城西大学理学部数学科を2年留年していた。
何故かこの時期に草津温泉スキー場に行った。福島荘の下宿の人達。10人あまり。合気道部のキャプテン渡辺さんとか。渡辺さんは、良い人だった。今どうしているのか?強くて優しい。もう60歳になってるだろう。あまり居ないタイプ。あと誰が居たのか。忘れました。富沢の奥さんとか。富沢は、大学の時。結婚していた。クルマは、2台。僕の日産サニーと富沢の日産チェリー。富沢の会社の寮が草津温泉にありました。寮と言っても。小さいペンション。温泉街ではなくて、草津温泉の入り口付近に、ペンションがありました。近くに〇〇ホテルがあり。女性のお風呂を覗きに行こうとか言って、出かけたは、良いが。もうすこしのところで、こんな事をして警察官に捕まったりしたら、あとあと不味いからと思って全員引き返し覚えがあります。また見ようとしても、遠くて見えなかった。飲んだり騒いだり。お酒は、苦手だった。今でも飲み過ぎてしまう。でも楽しかった。でも飲み過ぎたりして、失敗した。お酒が好きだが弱かった。でもスキーは、楽しかった。こんなに楽しいスポーツがあるのかと思った。ゲレンデは、草津温泉スキー場天狗山。ここは、滑り辛い。また混み過ぎて。子供や家族連れが多くて。ファミリー向け。その上のゲレンデが特に良い。ロープウェイ🚡がある草津白根山スキー場。ここには、なだらかなゲレンデがあり。登ったり降りたりした。スキーウェアなんか無いからカッパを着ていた。その時だったか。もっとあとかも知れませんが。良く覚えて無いが。初めての時では、無いけど。何回目かなぁ。草津白根山の岩と岩の間をクネクネ滑って降りるコースが面白かった。距離も2キロあまりあり、ゴンドラのロープウェイで白根山頂上まで行き。岩と岩の間を降りてきた。やはり変化がある方が好き。ただの一枚の広いゲレンデよりも、僕は、山岳コースが楽しい。この時期ですが、福島荘のアパートの部屋に富沢が1万円を借りにきた。お金が無いから無いと言えば良かったのですが、1万円札を渡してしまった。僕もお金が無い時期。その1万円を富沢は、いつになっても返してくれない。言っても言っても返さない。だからその内。友達の縁が切れた。富沢は、高崎市生まれ。それからというもの。富沢とは、友達になれなかった。あとで請求しても、またいくら言っても返してくれない。その時。友達同士でお金の貸し借りは、するものでは無い。こころから思った。

 

 

 

 

卒業してから農協に入る、仕事も無かった。父親が勝手に入れた、就職の為にいろいろ受験したが、どこにも入れなかった。そんなだから。仕事は、詰まらない。同僚の斎藤や多胡とは、仲も良くない。
女性とは、まったく興味がなかった。恋というものをしなくなっていた。あまりにも男子高校。また大学も男子ばかり。女性とは、話しをすることも無かった。
また女性とのお付き合いのしかたも忘れた。仕事が5時に終わると高崎市新星堂に本とCDを買いに出かけた。クルマは、TOYOTAカリーナ1500cc。そんな日々が2年3年と経った。パチンコブームで仕事が終わるとニューロングに出かけた。そんな時に中里とニューロングのパチンコ屋で出会う。