グランド・F・テニス倶楽部の思い出 前半

どおしても、書かなければ。ならない。

硬式テニスに夢中になっていた時期。ただただ感謝の言葉だけ。僅か数年間でしたが、楽しかった。ありがとうございました😊。あの時間が無かったなら。もっと農協のリストラが堪えただろう。その後の紆余曲折的な人生もなんとか耐えられたのも、全部グランド・F・テニス倶楽部のおかげ🎾でした。休みの日は、毎日。一週間に7日。テニスをしていた。ラケットは、ヨネックスのR360。厚ラケ。スマッシュとテニスジャーナル🎾のテニス雑誌が愛読書。USオープンとウィンブルドンのテニスの試合を録画しては、研究した。テニスの先生は、山口先生。その先生の口癖は、ファハンドが世界を制する。ファハンドが打てるようになれば、自然にバックハンドが打てる。その先生の奥さんが、一生懸命でした。奥さんは、テニスも上手く、身体が柔らかく、ストロークが上手かった。その奥さんの友達のママさんテニスが中心のテニス倶楽部でもあった。平日は、おばちゃんばかり。その奥さんは、特に僕は、良くしてくれました。休日は、お昼も食べた、コロッケにご飯のランチとか。それに碾きたての珈琲とか。立川さんや中村君がいた。また大久保さんや斎藤さんもいた。みんな吉野工業新町工場に勤務。特に大久保さんは、ざっくばらんで大声で話しては、わあははーと嬉しそうに話した。斎藤さんは、静かに落ち着いていた。あの頃は、新婚夫婦連れで子連れのテニス好きや家族的なファミリーやテニスオタクの両親に連れ出されたテニス高校生やその中には、Nもたまに後からKもいました。KもNもそれほどテニス🎾が好きそうでは無かった。藤岡市の雑多な人で混み合っていた。土曜日日曜日は、狭い駐車場は、いっぱい。幸せそうな家族連れが多かった。僕は、今よりも内気で話しが出来なくて、困った。仲良く談笑する事は、無理だなぁと思った。当時。既に僕は、30歳。でも焦りは、無かった。独身男性が多く。女性に興味が無かった。先生夫婦は、50代後半。あの頃もそれほど会員数が増え無くて。通っているのは、特定の人達ばかり。そのひとりが僕でした。みんな楽しそうでした。夕方になると決まったテニス好きが10人ほど集まる。日が暮れるとテニスコートがライトアップした。夏の夜のナイターテニスは、ラケットを持って球出しのボールを打つだけで楽しかった。

T👕シャツもいろいろ買っては、着ていた。ホシノスポーツで3000円ぐらいのを変わったデザインを着ていた。エレッセとか。先生の奥さんに新井さんは、服をいろいろと持ってるね!と冷やかされた。クルマは、黒のシルビア。何故か職場の先輩が黒の日産シルビアを買いなさいと言われて買った。最初は、イスズのジェミニディーゼルターボにするつもりだったのを。そんな土方のおっちゃんが乗るクルマでは、女にモテない。と言われて買った。テニス倶楽部に入ったおかげで体重が減り。無駄使いも無くなる。会員費も僅か月付き4000円。球出しは、山口先生。もと藤岡高校の体育の先生。体操部出身。それであまり先生も硬式テニスを知らなげでした。雑誌やテニスの試合を観て。イワン・レンドルのファハンドが良いねとか。アンドレ・アガシのファハンドも良いねとか言っていた。その先生には、娘さんが二人居た。確か僕よりも6歳下と8歳下だと思う。僕は、上の娘さんが好きでした。明るくて元気の良い女性が今でも好き。その時。みんな独身。その女性がいるから通って居た。その女性は、その当時。女子テニスに新星のように現れたマルチナ・ヒンギス選手にそっくり。プレースタイルも同じ。脚が細くて長い。脚力もあり。コートの中でも光輝いていた。どちらかというとシングルスは、苦手。シングルのような相手との一対一は、嫌げで、やりたがらない。女子ダブルになるとますます輝いた。先生の娘さんに、ひとり友達の女の子もいた。〇〇さん。群馬銀行で働いているという。その娘は、気が強気でおとなしい。少し暗いけど芯がしっかりしていた。バブル世代らしく。軽自動車がボーナスで買えちゃうわ!と言っていた。その女性は、今どうしているのやら。そのな楽しい日々が1年2年と経ちました。その後その山口先生の娘さんは、あまり知らない営業のサラリーマン風の男性と結婚。その話を聞いた時は、目の前が真っ暗。絶望してしまった。あんなにショックな経験もそんなにない。特に結婚式の美しい姿を見たら、泣きたくなった。独身男性がテニス倶楽部から蜘蛛の子を散らすが如く居なくなる。僕もテニス倶楽部にも脚が遠のく。その後。数年後に僕も結婚。その僕の妻が山口先生の娘さんと高校が同級生である事がわかる。山口さんを知っている?と聞いたら、電車の中でよく見かけたよ。あの娘は、サッパリしているよ。サバサバして気持ちの良い子と性格まで見抜いていた。八高線に乗って学校へ通っていた事があるとの事。八高線は、群馬藤岡駅から高崎駅まで一緒に乗ったという。その先生の娘さんは、みんなからモテました。脚が長く。身長が高く、テニスも上手かった。たまに来るけど、テニス倶楽部の男達は、みんな憧れの存在。立川さんは、今どうしているのだろう。特に先生の娘さんが好きげでした。立川さんは、完璧に惚れていたと思う。僕は、その女性が結婚するまでテニス倶楽部に通えると思ったし。だから結婚したことを知るとガッカリした。テニスが出来なくなることが一番堪えた。その女性と結婚は、出来ないけど結婚しないでいてくれることを望んでいた。僕は、タイプ的に合わないし、あまりにもサバサバしすぎ。先生の娘さんは、我々鈍臭い人達と、一線を画していて、遠くから覗くぐらいで諦めてもいた。でもみんなモテないだなぁ。みんな良いクルマに乗っていた。立川さんは、ホンダの赤のレジェンドとか乗っていた。今。どうしているのやら。いつもから元気でタバコを吸っては、上機嫌に喋った。来るとお寿司の話しをしたり。前橋市の喫茶店の話しをしたり、もう60歳のおっさんになっている事だろう。立川さんと同じ会社の中村君も居た。ファハンドが上手いがバックハンドは、下手、一本気のスカッとした性格でした、デカい黒っぽいセドリックに乗っていた。ラケットは、一晩でガットを切った。薄く固いラケットを好んで使っていた。中村君は、先生の娘さんの下の娘さんが好きそうでした。でも誰も結婚しなかったんです。みんなおとなしい。優しいからなんだと思う。それにみんな

シャイで気が弱くて。あまり自己本位な行動ができないタイプ、俺は、あまりもので、良いやというタイプでした。僕も。遠慮深かった。全員、吉野工業製作所勤務、日が暮れると集まった。ベージュの作業着を着替えて。ラケットを持って飛んで来ていた、